三話
3
怒号と銃声。悲鳴と笑い声と暗闇。
肉を裂き、骨を断つ感覚はもう一生消えないのだろう。沈んだ鉛色の瞳はリ
ノリウムの床を流れる真紅を追い、やがてその視線は掃除用にある、壁と床の
狭間の排水溝にたどり着く。
ただ一人生き残っていた彼の鮮やかな青い髪の先端は血の色に染まり、部屋
の中には異臭が漂っていた。まだ幼く、少年ですらなかった彼は耐え切れずそ
の場に膝をついた。床に手をつき、下を向いた彼の大きく見開かれた目は大粒
の涙を流しながら、血に塗れた自分の手を見下ろす。白すぎるほどに白い手は、
彼が外に出たことさえないという事を如実に物語り、周りに横たわっている子
供達が、少し前までの惨劇を思い起こさせた。
少し前までの。
「……ぅっ。……っ」
喉から、押し殺した声を出すそれは嗚咽のようであったが、それ以上の声は
出てこなかった。声をあげて泣く事を知らずに――否、禁忌とすら思っていた
のかもしれない。どこへ逃げても隠れても、声を出せば見つかってしまうのだ
から。
泣いたら見つかる。
見つかったら殺される。
だから、その前に相手を殺さなくてはならない。
少年の耳に、悲鳴と狂った笑い声の残響が響いていた。毎日のように。その
たびにもっと痛くないように殺さなくてはと、わけのわからない強迫観念に、
押しつぶされそうになる。彼が優しかったのか、それとも悲鳴を聞きたくなか
っただけなのか。とにかく、殺し合いをさせられるたびにそう思った。
不意に頭と胸に耐えがたい痛みを覚えて、ガラフは絶叫し、胸を押さえた。
心臓の辺りに熱い何かがわだかまり胸を焼くような痛みに、とうとう意識を手
放し。崩れ落ちる寸前、その手がなにかに縋るように伸ばされ、ぱたりと、堕
ちた。
大国ゼネアの黒歴史。とりわけその犠牲となったのは身寄りの無い戦災孤児
とよばれる子供達であり――これこそが、ガラフ=Gが強くならざるを得なかっ
た背景なのである。
イアラは瓦礫の下で息を潜めて向こう側の様子を窺っていた。遠くで銃撃戦
があっている、音が非常に耳障りである。壊れた塀に体を預け、右手で左肩を
掴んで大きく息をついた。
時々、千切られかけたときの痛みが蘇ることがあるその部位を、小さな右手
で防具の上から握り締め。
――こんなに――震えているのは、なぜ。
実を言えば、彼女の、故郷が滅ぼされたときの記憶は完全ではない。頭が、
その事象を受け入れることを拒んだのだった。良くある話ではある。むしろそ
んな記憶は無いほうが精神衛生上は良いので、彼女もあまり気にしていなかっ
た。しかしぼやけていた記憶の細部を、最近良く断片的に思い出す。ゼロと戦
ったとき、あのやりとり、その後からである。
村に帰って二人の男に殺されかけた、そして夜ガラフとリックに会うまでの
空白の時間を、色あせていた彩りを、そのときに感じた思いをふと、夢に見た
り口走ってしまうことが多くなったのは。頻繁に見る悪夢、悲鳴を上げすぎて
朝には満足に音を発することのできない喉。
それでもガラフとリックとゼロの姿を見るだけで、まだ安堵することは出来
た。
そして―――ガラフの側に居るとき、笑っているとき、背中を預け、戦って
いる最中にさえじりじりと胸の奥をあぶり、焦がし続けるどす黒い炎から目を
逸らす。
もう、足りない記憶を埋めてはいけないのだと、感じていた。きっと、ろく
なとになりはしないのだから。
ゼロを記憶をつついてしまった事で苦しめてはいけない。今の彼女に悪意は
無いのだから。
そんな思いが行動から見て取れて、だからこそゼロは悔やむのだ。いっそイ
アラが自分の保身の為に自分をなじってくれたならばと。この少女は優しすぎ
て、自分のことに無頓着すぎた。
リックは弾を入れ替えながら、小さく舌打ちした。
始まってから何時間が経った? たった半日のうちに、自分は五人も致命傷
を負わせてしまったのだ。若い頃はもっと、もっともっともっと、コントロー
ルは確かだったはずなのに。もう、こんなにも腕が落ちているのだ。さび付い
た賢人の像に隠れて銃弾をやり過ごし、相手の足だけを狙って撃ち、再び身を
隠す。半日でたったの五人、しかも致命傷程度の傷など、本来ならありえない
数字である。
何故なら、標的が動く為狙いが外れやすいから。苦戦を強いられている一般
の兵士から見れば大した腕を持っていたが、彼自身はそれに満足しなかった。
オレはこんなにも、弱かったのか。あんな一般人どもの動きすら見切れない
ほどに?
背後から棒を振りかぶった男の一撃をかわし、銃口で殴って気絶させる。逃
げられると厄介なので足は撃っておき、再び死角を走りはじめた。
廃ビルの中、石柱の陰で銃弾をやり過ごしていたイアラは不意に銃声が止ま
ったことに眉をひそめた。弾切れかと思った横から鉄鎖で殴りかかってきた男
の一撃を避けて成る程、と呟いた。銃声は陽動で、足音と気配を隠す為だった
のであろう。手違いは、殴りかかったら当たると思ってしまう素人考えか。や
けに、冷静に考える。
心臓が騒がしい。
先程まで銃を構えていた男はにやにやと卑らしく笑いながら、防戦一方のイ
アラを見ていた。それがやけに”あの”笑みと――
二人の男と暗い空。そしてぼろぼろの町。
「……気に入らねえ」
少女は小さく呟くと自分めがけて振り下ろされた鉄鎖を掴んで引き寄せ、そ
のまま男を壁に叩きつけた。それでも起き上がろうとする彼の顔面に膝蹴りを
食らわせ、しつこいんだよ、と悪態を吐く。肩を掠めた銃弾でもう一人の存在
を思い出し、大剣を抱えて柱の影に走り、転がり込んだ。
右肩に滲んだ血を手で乱暴に拭い、大きく息をつく。
壁に残った銃創を見ると、男が手にしているのは散弾銃のようである。
「……ツイてねえなあ」
男はイアラが怯えたとでも思ったか、ここぞとばかりに罵声を飛ばす。笑い
混じりのそれが気に食わない内容だったため、流石のイアラも我慢できなくな
った。しかめっ面で剣を構え、それに身を隠して男の方へ走る。相手の弾が頭
と胸以外の場所をすれすれで掠めていく。それで竦むような少女だと思われて
いることにさえ、腹が立った。舌打ちするのが聴こえ、右肩を数箇所、弾けた
弾が抉る。
悲鳴を噛み殺し、力の抜けそうになった膝を叱咤して走りつづけ。
鼓動が、高鳴る。
イアラはこの感覚を知っていた。これは、あの時の。
……あの、ときの。
相手の銃を斬りおとし、きっと、睨みつける。手から大剣が落ちて、重たい
音を立てた。
――赤――鮮やかに。
―――やめろ。
殴りかかる。一撃を間一髪でかわされ、前につんのめった体制を建て直し。
勢いのついた拳を引く。
――やめて――止まってくれ。
殴られ、よろけた男になおも殴りかかろうとする手を必死に抑えながら。
――――嫌だ!
蹴倒した男の腕をねじり上げ、押さえつける手が、わなわなと震えた。殺し
たがる体を押さえるのが精一杯なのだった。悔しそうだった男の目が、不安げ
にイアラを見上げる。
「……おい、大丈夫なのか?」
「………っ、るさい」
絞り出すような声で一言、そう言った。
「十人ってとこか」
リックは背中越しにガラフにそう言うと、銃を構えて前を向いた。
久々にこうして背中を預けられていることが堪らなく嬉しくて、思わず口元
が緩む。こんなのは、不謹慎なのだろうが。
「びっくりだな。お前がかこまれてるなんてよ」
「……こんなに」
「あ?」
「難しかったか。殺さないことは」
リックは無言で顔を上げ、引き金を引く。同時に、廃墟から飛び出してきた
少年が倒れた。細い脚を朱に染めて、睨みつける目が痛々しい。
この辺は特に若者や年配者が多いようである。だからといって戦意を喪失し
ては居ない。いっそなぎ払い、殺した方が早いような状況さえガラフが大鎌を
振るう理由にならないのは、――彼女が、悲しみを押し殺して笑う姿を見たく
ないからか。
「厄介だ」
「そうか? オレは嬉しいね! まるで、昔のガラフが戻ってきたみたいでさ」
ガラフははっと目を見開いたが、彼に何か言うよりも先に斬りかかってきた
少年を大鎌の柄の部分で殴り飛ばし。どういうことだと、静かに言った彼に、
イアラを利用してるみたいだけどなと、リックは苦笑した。
「ガラフはもう忘れてっかな」
壁に背を持たせかけ、ガラフをまっすぐに見上げ。
「今とあの頃、お前にとってはどっちが地獄だろうな」
「……――考えたくも無い」
リック=デュオというのは、彼が”施設”に入ってからつけられた名である。
わずか、四つの時のこと。
割り当てられた部屋は散らかり放題で、事情を良く知らないリックに不穏な
ものを感じさせた。特に親が殺されるのを見た後。彼は放心状態で家の床に座
り込んでいたのを軍の人間に見つけられた。
連れて行かれた場所は主に人間を使った生物兵器を作ることに熱心な研究施
設で、リックは”試作品”を普通の子供と生活させるとどうなるかと、研究者
達がほんの暇つぶしのつもりで始めた実験のために連れてこられたのだった。
連れて行かれる途中の冷たい床を、よくおぼえている。
その、”試作品”は、窓の側で毛布を羽織って本を読んでいるのだった。日
に当たったことが無いのか透けるように白い肌と、角度によって蒼く光る銀の
髪を持つ子供。細い腕が伸びて、頁をめくる様子に、魂を抜かれたように立ち
尽くしていた。そんなリックにやっと気がついた彼は顔を上げ、首をかしげる
ような仕草をする。少女さながらの可愛らしい顔の中でただ二点、深く沈んだ
鉛色の目がリックを見た。
「……だれ?」
「あ? ……あ、え……?」
赤くなって口ごもったリックを暫く見ていたガラフは、何も聞かないうちに
興味を失ったように顔を伏せた。
「そう」
「え? ……うん」
わけがわからないのでとりあえず頷いたその耳に、けたたましいベルの音が
響いた。ガラフは小さく体を震わせて傍らに置いていた剣を取り、立ち上がる。
それを引きずるようにして扉の前まで行くと、それに手を掛け、絶対に、開け
ちゃ駄目だよと言い残して外へ消える。
その、作りつけたような無表情が、リックには幼心に恐ろしく思われた。
扉の向こうの惨劇を彼が知ったのは、それから数日後のこと。
数年後に駆り出されるようになった戦とその施設。地獄と呼ぶに相応しいの
は果たしてどちらだったのか?
そんなこと今は――考えたくも無い。




