二話
2
――おまえなら大丈夫さ。
なにが?
――こんなところに居たくないだろ? 俺たちが外に連れてってやるよ。
……そと?
――そうだ。行きたくないのか?
…………いきたい。
「ガラフ!」
彼は聞きなれた相棒の声で我に返り、三人がかりで斬りかかって来た敵兵の
首を無造作に飛ばす。以前はその音と臭気に吐き気さえ催したものだったが、
今は自然とそんな音は聴覚が受け付けなくなっていて、背中あわせに荒い息遣
いで大剣を振り回す彼女の声すら遠くに聞こえた。
彼は小さく息をつくと、怪訝そうな顔をするイアラを見下ろす。まあ、こん
な場所で物思いに耽っていたのだから当然か。少しは場をわきまえろというこ
とらしかった。
「悪い」
相変わらず表情も抑揚も無く呟いた彼を見上げ、イアラは呆れ顔で首を傾げ
る。手に持った剣が重いが、そんなことは今は気にしていられない。
「どうしたんだ、ぼけっとして」
「……酔っていた」
「…………控えたほうがいいんじゃねえの」
何を、とは解っていても口には出さなかった。わざわざ言わずとも、彼はわ
かっているに違いないから。
イアラはぐっと大剣の柄を握り締め、敵陣に圧され気味の場所へ走った。ま
だいける、まだやれると、一振りごとに叩き潰し、斬る、その形容しがたい音。
悲鳴。血の、匂い。吐き気がして、こみ上げてくるものを強引に飲み込み、
手のひらに残る感覚を否むように再び剣を振るう。咆哮する。動く、その目に
映るもの全て、跡形も無く叩き潰し、両断し尽くしてふと、顔を上げれば。い
つしかそこに、屍と血の池と瓦礫の上に佇んでいるのは彼女一人なのだった。
生臭い臭気にやっと自分を取り戻し、口元を押さえて崩れ落ちた少女を、隠れ
た同胞たちの怯えた視線が突き刺す。
血の匂いに酔って、自我さえ忘れて、風の様に走り抜けて、そこまでして
”ここ”に来る意義を自身に問う。
あるわけがない。
そんな下らない自問自答を自分で打ち切り、苦笑する。
つい最近、イアラは自分が”風刃”と呼ばれ、敵にも見方にも恐れられてい
るのを知った。そうやって、”銀鬼”――ガラフが味方をなくしていったのを
知った。
銀鬼は風の刃と荒野を駆り、全て無に帰するのだと。聞いたときは泣きたい
ような、叫びたいような、気持ちになった。そんな形容詞で片付けるなと。わ
たしはまだ人間だし、ガラフは最初から魔物になど堕ちてはいないと。
「大丈夫か」
背中側から聞こえた声に、振り返らずに首を振る。
「駄目だな……血を見るとさ。忘れるどころか」
鮮明に。
頭を叩き割るために何度も振り下ろした岩の冷たい手触りも。腕を引き千切
り、 脳漿を踏みにじったあの音も。
吐き気すら覚える程苛烈に、思い出す。
「……刃……か」
見下ろすガラフに、なんでもないんだと笑った。
ガラフは、少女の身体が大きくのけぞったのを見ると、近くまで移動して、
腰を下ろした。風が喉を通り抜ける、乾いた音がする。眠っているイアラの手
が彷徨い、毛布を掴んだのが見えた。
引き攣った悲鳴が大きくならないうちにその口を塞ぎ、耳元で落ち着けと小
さく言ったガラフの腕にイアラの両手が爪を立て、深く傷をつける。足はじた
ばたと暴れ、くぐもった悲鳴が零れた。
ガラフは、昼間とは全く違う彼女の様子に内心どうしようもなく動揺しつつ、
爪を立てる彼女の片腕を掴んで床に押さえつける。行き場を無くし握り締めた
手のひらに、爪が食い込むのが見えた。やがてもう片方の手からも力が抜けて
ぱたりと床に倒れる。爪を彩る紅が生々しかった。悲鳴を上げているわけでは
なさそうだと確認すると、ガラフは彼女の口を塞いでいた手を静かにどける。
静寂の中に、小さく嗚咽が聞こえた。イアラは、さっきまで暴れて散々に傷
をつけた両腕で目元を覆って泣いているのだった。
彼は後悔とも不快感ともつかない感情を瞳に過ぎ行かせ、それを覗き込む。
「……イアラ?」
「ごめんなさ……っ、ごめ……ぁ、う………ッ」
「イアラ」
「いやああぁッ」
「おい」
ガラフが小さく声を掛けると、彼女は薄く目を開いてその腕を掴んだ。逃が
すまいと爪を立て、それを掻き抱いた。
「―――ころしてやる……」
低い声に、息を呑んだのはガラフのほうであった。小刻みに震える細腕を不
意に恐ろしいもののように感じて、思わず少女を突き飛ばす。我に返った彼の
手が肩に触れるとイアラははっと眼を覚まし、飛び起きた。震える両手で自分
の肩を抱き、思い出したようにガラフを見上げる。
「あ……っ」
「……大丈夫なのか」
言いながら涙を拭う仕草が恥ずかしかったのか、イアラはぶるぶると頭を振
ってその指から逃れた。
それから自分の爪が赤いのに気付くと、ガラフの腕に手を伸ばして傷を探す。
見つけると悲しげな顔をしてその上に手を添えた。
「ごめん」
「謝る必要はない」
イアラは顔を上げ、むっとした顔でガラフを見上げる。もう、さっきまでの
面影すら感じないような素振り。そうなんだろうよと吐き捨てるように言って
詰まらなさそうにそっぽをむいて足を投げ出す。気まずい沈黙が、後に続く。
彼女は赤い目を擦りながら暫くそうして黙っていたが、やがてそわそわと目
を泳がせ始めた。
「……眠れないのなら、起きておけ」
「別に、そんなわけじゃ」
「ならばオレを信じていろ」
イアラはばっと振り返り、どうしたと見下ろしてくるガラフを見るなり赤面
して黙り込んだ。彼を見上げて二、三度口をぱくぱくさせたかと思うと、片手
で顔を覆い隠すようにしてため息を吐く。
「真顔で言う事かよ……。相手は選んだ方が良いぜ」
「何のことだ」
「うあ――っ、もう良い! 頭冷やしてくる」
ふらふらとテントの出入り口に向かう背中に向かって伏兵に気をつけろよと
柄にも無く冗談など言ってみたガラフに、イアラは振り返らずに手を振って答
えた。
唄が、聴こえた。
優しい旋律は子守唄であると思われた。ゼロはガラフの大鎌にもたれていた
体を起こし、その声に聞き入った。聴くに心地よいアルトの声は、いつもより
も柔らかで、外を照らす月光に融けて空気と同化して充ちていく。光はテント
の中にまで透って、その中でふと、ガラフの表情が沈痛なものに変わるのを見
た。
ゼロはそれから視線を逸らし、解いていた深緑の髪を掻き揚げる。
「イアラの声」
「いたのか」
ゼロに気付いたときには既に、それは元の鉄仮面に戻っているのだった。
「私の出る幕なんて無かったけどね」
そう言って項垂れる。ガラフはそれをちらりと見やり、再びまっすぐ、何も
無い場所に視線を向けた。
それから、ふと自分の大鎌を見る。
「……優しい夢を見せてやれるか。あいつに」
「そんなことが可能ならね。貴方以上に、見せてやれる人なんて居ないと思う
けど?」
「オレには決して、出来ないことだ」
抑揚の無い、声。こんなものではイアラの歌声に合わせて唄うことさえ出来
ないのだ。まして、自分は。
「饒舌なのね」
どこまで読んだのか、彼女は紅玉の目を細め、哀しげに微笑った。
イアラが戻ってくるとゼロは項垂れていた顔を上げ、彼女の腕に抱きついた。
本人は驚いた顔をしていたが、やがてふっと笑ってその背中を撫でる。透き
通った薄い羽が、はたはたと震えた。
「どうしたんだよ?」
「イアラは私を、嫌ってない?」
「無いよ」
「私はイアラの側に居ても良い?」
「ああ」
「苦しいことも話してくれる?」
「どうしたんだよ?」
静かな掛け合いを、ガラフは傍らで聞いているだけであった。
「ガラフ。と特にイアラ。非常に残念なお知らせだ」
帰って早々、リックはソファに座って二人を手招きした。ゼロがイアラの頭
の上で思いっきり顔をしかめたが、それは無視して彼らを自分の両側に座らせ
る。
「なんだ」
「銃器の流通してる町があるんだそうだ。全く、上も人遣いが荒いよなあ」
「……そもそも、人と思っているのか」
ガラフの独り言にリックは酷く傷付いたような顔をして、すぐに地図に視線
を落とした。ふとイアラのほうを見ると、彼女は焦点の定まらない目で前を向
き、膝の上で両手を握り締めていた。
彼女は、地図を見下ろしてじっと、遠い場所を見ていた。
人を殺すために駆ける銀。角度によって蒼く輝き。家。道。転々と転がる屍。
累々として、濁った目で見ている。イアラを見て。笑う。
――――殲滅……廃村――わた、し――――――
「イアラ?」
ゼロの心配そうな声で、我に返る。イアラは大丈夫だと笑うと、リックに先
を促した。ガラフは暫く黙っていたが、リックに視線をやり、殺す方は上に任
せると、一言告げた。意味を理解しかねているリックに、向き直る。
「オレたちは、確保に撤する」
「あ? ――ああ。わかった」
リックは複雑そうな表情で頷き、再び話に戻る。
――何が、変わったというのだろう。
ガラフが戦闘に関して何か意見するようなことはこれまで無かったのである。
ただの一度も。
彼の優しさはこんなにも、目に見える形だっただろうかと。
イアラは町を目の前にして舌打ちした。
何が、殲滅だって?
――こんな廃墟を、これ以上どうしろってんだよ、あのハゲ共!
そんな表情を見て取ったのか、ガラフはイアラの肩を軽く叩いた。イアラは
彼を見上げると、眉間のしわを更に深くして前を見据える。
恐らく崩れた建物の影に居るのであろう人の気配、そして灰色一色で構成さ
れたような味気ない背景が、酷く不愉快である。屋根はぼろぼろになり、ある
はずの場所にあるはずの建物が無い。無残に折れて、枯れた木々。道の石畳は
ところどころ引き剥がされ、割れている。これでは地図などあって無いような
ものだ。
見通しが悪いその景色に、ひどく心がざわついた。
何が原因かなんて、此処最近頻繁に見る夢を思い出せば考えるまでも無かっ
たが。
「休んでいても良い」
「はっ、バカ言うなよ。わたしはお前と――」
―― 一緒に居たいって
「一緒に居るんだって、言っただろ」
大鎌を構えもせずにただ持って自分を見下ろすガラフを見上げたイアラの双
眸が、すっと細くなる。
憎、い
「え?」
「なんだ」
目を見開いたイアラを、ガラフが同じ姿勢で見下ろす。彼女は片手でこめか
みをおさえ、ひどく狼狽しているのが見て取れた。
――わたしは今、何を考えた?
憎いと。誰のことを?
ふと、縋るような目で彼を見上げる。
「なんでもない」
「大丈夫だって」
不安げなイアラの声に被せるように、リックがそう言って笑う。それでも暗
い顔をした少女の両肩に、大きな手が二つ乗せられた。
それは、無限の孤独から少女を救い出し、
光も闇さえも無い空白に地獄の業火を点し、
不安定な心の行方をまっすぐ照らしてきた、
まるで導のような。
イアラの表情が、ふっと、和らいだ。その部分から伝わってくる体温が、ま
るで――
家族のような。
「……すっげえ子供扱い。最悪」
「ガラフが父親か?」
「リックみたいな浮気性は良い母親になれねえな」
豪快に笑ったイアラの背中を、不服そうなリックの手が軽く押し出した。彼
女が不思議そうに顔を上げると、彼は苦笑して銃を構えた。
イアラは特にそれ以上気にすることも無く、目の前に広がる廃墟を見据えた。




