不意に閃く
辺りは薄闇に包まれ、徐々に日が落ちていく。屋敷の前庭に赤い絨毯が引かれ、その上を客人たちが通り始めた。
ヴァン・ファマーケオは燕尾服に着替えると、ホールで客人たちを歓待していった。
夕刻も過ぎる頃、タキシードに身を包んだラテラ警部が姿を見せた。赤縁の眼鏡を鼻にかけてすっかりおしゃれをしている。
「やあ、これは警部。わざわざ来て頂き感謝いたします」
「こんばんは、ファマーケオ伯」
握手をすると、警部はファマーケオの耳元でささやいた。
「実は僕の部下を数人、極秘で式場に入れたいのですが」
「どういうことですか?」
大声で聞き返すと、警部はウインクして人差し指を口の前に立てた。
「お静かにお願いします。誰が聞いているかも分かりませんので」
辺りに目を利かせながら、小声で続けていく。
「昨日報告した通り、φのカードは屋敷から発見されませんでした。しかし、手口から言ってファイが犯人でないわけはありません。僕の勘では、奴はまだ仕事を終えていない。今夜また現れるでしょう」
「また奴は私から盗んでいくというのですか……」
ヴァンの顔が蒼白になっていった。嫌な汗をじっとり額にかき始めていた。
警部はなだめるようにヴァンの肩を叩いて言った。
「ご心配なく。そうならないように僕がいます。今夜こそ、奴の両手に手錠をかけてみせますよ。伯爵は何も心配せず、お嬢さんの結婚をお祝いしてください」
「頼りにしてもいいのですか。式場には家宝の像が飾ってあるのです」
「もちろんですよ。それでは僕は目立たぬよう、隅でワインを飲んでいることにします」
そう言い残し、警部は式場へと歩いていった。
ヴァンは自分より一回り若い男の背中を見送った。
その目はしばらく呆然と宙を泳いでいた。ふと後ろからイスリカの声がかけられた。
「ご主人様、あの警部と何を話していたのですか」
「おお……イスリカか。お前に命じたいことがある。今晩は、像の隣にずっと立っていてくれ。もし私の合図があったら、像を隠し通路から式場の外へ運び出すのだ」
ヴァンは怪しい兆候があったなら、すぐにでも像を隠そうと考えていた。
像だけは奪われてはならなかった。
あの像だけは守らねば。
警部に任せるのは心もとなかった。
「かしこまりました」
イスリカは深々とおじぎをした。
数時間の身支度の末、衣装の着付けはようやく終わった。リズは首元までしか映らない鏡の前に立たされた。
清純さの象徴である白いウェディングドレス。幾重にも編みレースで薔薇が装飾されている。腰のラインは内側からコルセットで絞られ、美しい女性の曲線が強調されていた。
顔から上は映されない。
「お嬢様、大変きれいでございます」
女中たちは口々に自分を誉めそやした。彼女らが無理をしていることを悟って、リズも無理に笑顔を作って礼を述べた。
「ありがとう。……あの、少しだけ花壇を見に行きたいのだけれど良いかしら」
すると、イスリカが眼鏡を光らせてこう言った。
「駄目でございます、お嬢様。式までもう時間がありません。それに花嫁が気ままにうろついていいはずございません」
「五分だけでいいのだけれど」
「到底許せません」
そう冷たく断言され、リズはしばらく考えた。
「それなら……せめてお部屋に行ってもいいかしら。これでこのお屋敷ともお別れだから、最後に一目見ておきたいの」
「まあ、それなら良いでしょう」
リズは部屋の隅の振り子時計を確認した。開式まで残りわずかである。彼女は小走りで自分の部屋へと急いでいった。
部屋に入ると、窓を少し開け、真下を見る。そこにちょうど位置している花壇が見えた。
ランタンの光で照らし出され、花々は幻想的な色合いを見せていた。
リズは必至で考える。アルファベットの最後の一文字はどこに隠れているのだろうか。花の色合い。花の種類。花の名前。どれを取っても確信できる一文字は見つからない。もし花壇のどこかにサインの形で隠れていたら、遠くからだともはや確認できないだろう。
その時、ふと彼の言葉が思い出された。
――よく見ることが大事なのです――
よく見るとはどういうことだろう?
彼女は闇夜に目を凝らした。そして、気づく。
個々の花でなく、花の集まりとして見た時、花壇は逆さにした「ト」に近い形をしていた。
つまり、これは斜めに見た時「y」なのだろう。彼女はそう思い、日記帳に「y」をメモした。
これで全てのかけらが揃った。「R」、「D」、「A」、「y」。関係した日付順に並べ直してみると、「D」、「A」、「R」、「y」。
だが、並べて全てを見つめた時、彼女は違和感を覚えた。「DARy」という単語はないし、そもそも「y」だけ小文字というのが奇妙な話だ。「A」は彼女が書いたものだから小文字の「a」かもしれないが、「D」と「R」はサインでそう書かれていたから大文字である。
何か間違えているのか。「DARy」が彼の真の名とはリズには思えなかった。
その時、部屋の扉が叩かれた。
「お嬢様、時間でございます」
イスリカが扉を少し開けて顔を見せた。
「……分かったわ」
リズは日記帳を机の上に置くと、イスリカに連れられて部屋を後にした。
時間が欲しかったが仕方ない。何か一つ後気づけば、答えに辿り着ける気がしていた。
式場はすでに人々でごったがえしていた。イスリカはリズを式場横の控室まで連れてくると、用事があるから言ってどこかへ行ってしまった。リズは式が始まるまでの時間、小窓から式場の様子を覗いていた。
控室にいる、他の女中たちのお喋りが聞こえてくる。どうやら神父がまだ来ていないらしく、始まるのが遅れているようだ。
来賓の貴族たちも、薄々何かあったのかと察しているようだった。
しばらくすると、鈴が鳴り、式が始まった。父が壇上に登ると一礼をする。そして、滔々とファマーケオ家の歴史について語り始めた。
時計の細い針が何周かして歴史の話が終わり、次はリズの幼い頃について話し出した。
どうやら、神父が来るまでの繋ぎを務めているらしい。大しておもしろい話ではないので、貴族の中にはこっそりあくびをする者が出始めていた。
リズは時間を持て余し、かけらについて考え直していた。並べ順が違うのかもしれない。DAyR、ADRy、RDAy……。どれもしっくり来ない。
その時、女中の声が聞こえてきた。
「あら、あの人、口を大きく開けてるわ。よっぽど眠いのね」
それを聞き、彼女は思い出した。そう言えば、花壇のスケッチをした日、彼は居眠りを決めていた。その様子があまりにおかしかったから、彼の寝姿も花壇の横にスケッチし、日記にもそのことを書いたのだ。
そう、彼は花壇の脇に斜めに寝ていた。
「あ……」
リズは口に手を当てた。
あの日、あの時、もしその様子を遠目に見て、彼もアルファベットの一部に加えたとしたら。
見えるものは逆さにした「ト」ではなく、アルファベット大文字の「K」。
そして、これをかけらと見なした時、浮かび上がる単語は「DARK」。すなわち闇。
思えば彼は答えを自分で言っていた。
――私は闇の住人です――
ようやく、全てのかけらが一つに繋がった。
人名ならばRを長音でなく一つの音として読む。だから読みは「ダーク」では「ダルク」となる。
ちょうどその時、父が壇上から下りていくのが見えた。神父が到着したらしい。リズの耳に花嫁を呼ぶ鈴の音が届いてきた。