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恋に落ちる

 その日はピアノの指導があった。リズは少し背伸びをしながら鍵盤を引いていく。鍵盤楽器には自信がある。彼に腕を見せつけたかった。


「良い音です」


 彼はそう褒め称えるとリズの頭を撫でた。手が退くとすぐさま、頭の髪を掻き毟った。

「汚いから、触らないで」

「私の手はきちんと洗ってありますよ。安心して欲しいです」

「そういうことじゃない! なんで分からないの、目が見えないんじゃないかしら?」


 リズは彼を睨み付ける。彼の闇を映した瞳と目が合う。


「気にしてませんから大丈夫です」


 彼はそう言うと、リズに新しい楽譜を渡した。


「今度は楽しい気持ちで弾いてごらんなさい。この曲は白鳥たちが湖で愛を語らう調べを奏でています。その情景を想像しながら紡ぐんです」


 リズはピアノに向き合うと、楽譜通りに演奏していった。しかし、ただの一度も白鳥なんて麗しい鳥について考えなかった。

それでも彼は終わると頭を撫でてくれた。父も母も決してしてくれなかったことだった。

 その晩、リズはお風呂で入念に頭を洗った。月明かりの下で日記を書き終えると眠りについた。


 翌日、リズは中庭へ呼び出された。そこには紙袋を持った彼が待ち構えていた。右手にはステッキを持っている。


「今日は鬼ごっこをします」

「鬼ごっこ? 何それ?」

「決められた鬼がそれ以外の人間を追いかける遊戯です。手で触れると鬼は次の人に移ります。逃げる心理、追う推測、深まる相互理解。まあ、言葉にするより実際にやりましょう」


 洋服が汚れそうだから嫌だと断ると、彼は紙袋から茶色の庶民服を取り出した。


「これに着替えたら問題ありません」


 リズは渋々、自室に戻って服を替えると、また中庭へと戻った。初めてだからリズが人間、彼が鬼で勝負を始めようと彼は提案した。逃げ場所は屋敷の敷地内。


「いいよ」

「では」


 彼が目を瞑り、数を数え始めたので、リズは慌てて屋敷の中に逃げ込んだ。

 そして、扉の鍵を入念に締めた。誰も中に入れないようにする。

 はなからまともに勝負する気などない。鬼ごっことやらと花嫁修業に何が関係あるのか、彼女には理解できなかった。

 ただ、彼の困った顔を見られるのかと思うと、リズは途端に意地悪な気持ちで嬉しくなり、柱の陰でほくそ笑んだ。


「鍵をかけるとは、いけない子ですね」


 後ろから彼の声が聞こえ、リズは振り向いた。彼がエンランスホールの大階段を上った先に立っていた。

 窓か裏口から入ったに違いない。しかし、鍵がかかっているはずなのにどうやって中に入ったのか? リズは問いかけたかったが、彼が一歩ずつ近づいて来るのを確認し、すぐさま逃げ出した。

 渡り廊下を走って、父、母、自分の私室のある棟へと走っていく。後ろを振り向けば、絶えず彼は一定の距離を保ちつつ、しかし、歩いて追ってきている。

 扉を開けて棟に入ると、彼女は即座に鍵を締めた。廊下の突き当たりまで来る。そこにある隠し扉を開けると、階段で地下室へ下りていく。


 本気で彼から逃げてみたかった。果たして、彼に自分を捕まえることができるのか、試してみたかった。


 地下には大きな部屋が広がり、父が集めてきた値打ちのある古物が所狭しと置かれている。リズは古物の間を縫って奥へ奥へと移動し、一つの大きな石像の前で足を止めた。

 白い布に覆われていて石像は見えない。これは父によると一番値の張るお宝のようだ。だからリズは一度も見せてもらったことはない。

 石像の脇で息をひそめ、孤独と静寂を楽しむ。今頃、彼は鍵のかかった扉の前で右往左往しているに違いない。私室のある棟へと続く扉だから、彼のような部外者が絶対開けてはいけないものである。


 だがしばらく待っていると、揺らぐ薄闇の先、部屋の入口に彼の姿が見えた。リズは息を呑んだ。

 彼はまるで実体がないかのように足音を立てずに歩いていた。影さえ揺らぎ、体から幾重もの残像がぶれて生じている。闇と一体化しているように見えた。

 彼は石像の前に来ると、その横に隠れていたリズに目をやった。


「ようやく見つけましたよ。お嬢様。頑張って逃げましたね」


 彼は自分の頭に手を置いて撫でてきた。


「どうやって入ったの? 鍵はかかっていたはずなのに」

「私の前では鍵など無力です。お嬢様の心の鍵もね」


 リズは鼻で笑って手を跳ね退けた。

 その晩の月は薄い三日月であった。日記に彼のことを書いてから眠りについた。




 翌日は庭で花のスケッチをさせられた。


「よく見ることが大事なのです」


 彼は適当な助言をすると、芝生に寝転がりぐうぐう寝始めた。目の下には隈が浮かんでいる。何か夜更かしをしていたのかもしれない。

 リズは花の代わりに彼の寝姿をスケッチした。起きて見せたらさぞ驚くだろうと思った。

 日向ぼっこができて気持ちの良い日であった。

 昼ごろ、頭の禿げた貴族の男が屋敷を訪れた。


「儂の花嫁はおるか? 花嫁はおるか? 出し給え」


 彼は大声を上げ、自分の名前を呼んでいた。リズは慌てて自室に帰ったが、イスリカに見つかり、男の前まで引きずられていった。


「おお、おお、リズ。待たせてすまない。ようやく準備ができたよ。挙式は二日後、この屋敷で行う」


 男はやにで黒ずんだ歯を剥き出し、震える手で自分の頬を撫でてきた。白く濁った瞳で見つめられ、寒気が体を襲った。


「ああ、若い。若さが溢れている。好きだリズ。大好きだ。君のような子と結婚できるとは儂はなんて幸せなんだ」


 触られている間中、リズは懸命に悲鳴をこらえ、肩を震わせていた。固く強張った手は妙に肌に吸い付いてきて気持ち悪い。


「リズや、何か喋っておくれ。儂は目が見えないから、代わりにお前の声が聴きたいんだ。どうして震えているのだ?」

「……ジョン・ラセッタ男爵、今日はようこそお越しくださいました。リズは感激で歯の音も上手く合わないくらいでございます」

「おうおう、嬉しいことを言ってくれるな。可愛い声だ。リズは儂のことをどう思っている?」


 リズが涙目で立ち尽くしていると、背後からイスリカが尻を強くつねってきた。


「はっ、はい……お慕いしています。それはもう人々が太陽を愛するように大好きでございます」


 それを聞き、ラセッタ卿は興奮したように息を荒げた。生臭い息が顔にかかってくる。


「二日後が楽しみだ。どうだ、これからお茶にでもいかないかい? 道すがら、お菓子でもお人形でもなんだって好きなものを買ってあげよう」

「お勉強があるので、すみません……」

「まあいいじゃないか。儂が素敵なところへ連れて行くと言っているのだぞ」


 嫌がるリズの手を、ラセッタ卿は無理やり鷲掴もうとした。

 その手は隣から駆け寄ってきた彼によって阻まれた。


「今日のところはお引き取りください。私からの頼みです」


 彼は凜とした顔立ちでラセッタ卿を睨み付けていた。

 言いも知れない安堵が心の内に広がっていく。


「何者だね君は?」

「お嬢様の家庭教師をさせて頂いている、ニコラ・バチックです」

「君は不遜だね。私は男爵であるぞ。分をわきまえろ」

「承知の上です。私はファマーケオ伯からリズ様を相応しい花嫁にするよう命じられているのです。挙式までもう日がないなら急がねばなりません」


 ラセッタ卿は不服げに拳を震わせ、白濁した瞳で彼を睨んでいたが、椅子の足を蹴り飛ばして(きびす)を返した。


「花嫁修業の邪魔となるなら、今は身を引くしかあるまい。だが若造よ、儂に口ごたえしたことを後できっと後悔することになるぞ」


 ラセッタ卿は足音を荒げて屋敷から出ていった。

 彼はまだ震えているリズの肩に手をそっと乗せてきた。温かみが服を介して染み込んでくる。徐々に震えは止んでいった。


「……ありがとう」


 小さな声で、恥ずかしげに呟く。見上げると、彼は眉をひそめて視線を落としていた。


「君は……相当つらい事情を背負っているようだね。礼を言われる資格なんて私にはないよ」


 彼は初めてリズに対して敬語を使わなかった。


 その晩はずっと震えが収まらなかった。なかなか寝付けず、月明かりの下で日記を書いていた。


 彼は午前中、芝生の上で涎を垂らして眠っていた。

 彼はお昼にパンを六個も食べた。

 彼はラセッタ卿の無理強いを拒んでくれた。

 彼は――。

 気付くと、日記帳は彼のことでいっぱいに埋まっていた。リズは恥ずかしくて顔が赤くなり、机に顔を突っ伏せた。


 じんわりとした冷たさを頬に感じながら、二日後のことを漠然と考えていく。

 禿げた中年の貴族と結婚しなければならない。

 三番目の奥さんだと聞いていた。

 大事な操をそんな男に捧げなければならない事実に悲しくなった。もし仮にラセッタ卿ではなく彼と結ばれることができたなら、どれだけ幸せだろうか。眠くてぼんやりとした頭でそう想像した。


 突如、窓から突風が吹きこんだ。

 滲んだ視界の先、開いた窓から、黒い羽が舞い降りてくる。

 それは彼女の顎の先で落ちて止まる。

 鳥でもいるのだろうか、と彼女はいぶかしむ。すると、窓の上枠に手がかかり、男性が部屋へと転がりこんできた。


「こんばんは、お嬢様」


 それは彼だった。黒い髪に黒い眼は夜の闇に溶け込んで、月光を怪しく反射していた。背には漆黒の大翼が生えている。右手にステッキは忘れていなかった。

 リズは呆気にとられて彼を見つめていた。彼は人差し指を口に立てると、声を潜めて言った。


「夜の課外授業でございます。どうかお静かに」

「あなた……何者なの? それにその翼は?」

「呪われし者の証です。昼には住めず、千の夜を飛ぶ私がいる。それだけ分かってくださればいいでしょう」


 彼は音も立てずに床に降り立った。途端に、黒い翼は縮み、彼の背に吸い込まれていった。


 リズの胸を動悸が襲った。彼が目の前にいる幸福に頭が追いついていかない。

 不意に彼の胸元にそっと抱き寄せられ、耳元でささやかれる。


「お嬢様、なぜ望まない結婚をしようとしているのですか? 毎晩、屋根に座って月を眺めておりますと、お嬢様のうなされる声が窓から漏れ出してきておりました。いったいどんな事情があるというのです?」


 リズは彼の胸にすがってすすり泣きながら一言ひとこと語っていった。


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