気障に出逢う
その眼を見てはいけない。
その声を聞いてはいけない。
その者と口を利いてはいけない。
暗闇に取り込まれたくなかったら、ただ月を見て道を歩くことだよ。
そんな歌詞の童謡がリズの耳を苦しめる。待ち行く子どもたちは屋敷の前を通るとき、声高にそれを歌うのだ。権力を持つ父を知る大人たちは歌わない。声に出さずに、腹の中で口ずさんでいるのだ。
自室で歌を聞くたびに、リズは枕を耳に当て、必死で音から逃げていた。
「お嬢様、お嬢様!」
部屋の扉が叩かれ、老女中のイスリカの声がした。
イスリカは乱暴に扉を開けるとベッドまで早足で歩いてきた。リズの被る布団を引き剥がす。
「起床の時間でございます」
「嫌だ!」
シーツにしがみつき、精一杯の抵抗を示すが、イスリカはリズをお腹から抱えると、無理やりベッドから抱き起した。
「わがままは通りません。お嬢様には、貴族に相応しい立ち振る舞いを求めます。お父様に言いつけますよ」
父。その人を出され、リズの顔は恐怖で歪んだ。打って変って借りてきた猫のようにおとなしくなり、寝衣からドレスへと着替えさせられる。
リズはイスリカに腕を掴まれ一階まで連れて行かれた。鏡のない洗面台で朝の身づくろいを済ませ、一人だけで形ばかりの冷えた朝ごはんを食べ終わると、勉強部屋に入る。そこには、父の姿があった。
父こと伯爵ヴァン・ファマーケオは、貴族であり金持ちであった。高そうなスーツに身を包み、太った腹を前に突き出し、リズを上から見下ろしている。
「……お父様、おはようございます。私に何の用でしょうか?」
リズは身体の芯からくる震えを懸命にこらえて、父に首を垂れた。
「おはようリズ。今日から新しい先生がお前を教えて下さる。挨拶をしたいと思い、わざわざ仕事に遅れて行くことにしたんだよ。先生はもうそろそろお越しだ」
どんな先生が来るのだろう。期待などなく、恐怖ばかりが胸に膨らんでいく。
ノックが三回あり、イスリカの声が外から聞こえた。
「先生をお呼びしました」
「中へ」
老女中が扉を開けて中に入る。続いて、タキシードに身を包み、すらりとした二十代前半の若者が部屋へと踏み入ってきた。黒い髪に黒い眼。この地方では色取りどりの髪と眼が当たり前であり、黒は珍しかった。東洋の生まれかもしれないと思う。
彼の眼は吸い込まれそうな闇の魅力を放っていた。
「ファマーケオ伯、初めまして。私がお嬢さんの家庭教師となる、ニコラ・バチックです」
彼は杖を右手に、紙袋を左手に持ち、父へと深々と礼をした。
「よろしくお願いします、ニコラさん。娘はあと数日後に一世一代の結婚式を控えておりまして、どうしても貴族の淑女たる作法を身に付けねばならんのです。急なことですが何卒何とぞ」
父と彼は笑いながら握手をした。
「お話は事前に伺っていましたが、また急な挙式ですね」
「はは、貴族の事情があるのですよ。リズや、ニコラさんは若くして偉大な学を修められている。学べばきっとお前は生まれ変わるだろう」
「ファマーケオ伯、私から娘さんに少しプレゼントがあるのですが」
彼は黒い眼を鋭く輝かせると、紙袋から大きな熊の縫いぐるみを取り出した。
それを見て、リズの眼は光り輝いた。
「素敵……」
しかし、リズがそれに手を伸ばして触れる寸前、父の手が縫いぐるみを奪い取った。
父の顔は真っ赤に膨れていた。ニコラは驚いたように眉をひそめている。リズは胸が苦しくなった。
「このようなことは、二度としないで頂きたい。娘はもう子どもではないのです。式を控えた花嫁なのです」
父は熊の縫いぐるみをイスリカに渡すと、彼を指さして注意した。
「あははは、申し訳ありませんね。しかし、彼女はまだこんなに幼いのに……」
彼は何度も頭を下げていた。リズの目には、彼はとても偉大な学を修めた人物に見えなかった。
「良いですか、玩具の類は持ち込み禁止です。鏡となるようなものの類も持ち込み禁止です。そして水は必ず屋敷の決められた場所でだけ使って下さい。守らなかったらあなたを解雇します」
父はきつい口調でニコラに念を押す。
彼は困ったような笑顔を浮かべながら頷いていた。
父とイスリカはすぐに出て行った。
「まずは自己紹介をしましょうか」
そう言うと彼は椅子を勧めてきた。リズは黙って椅子を拒み、部屋の隅まで歩いて行ってそこに座った。
彼は目をくるくると回していたが、肩をすくめて泣きまねをした。
「君は人見知りが激しいようですね。紹介は私からいきましょう。私の名前はニコラ・バチックではない」
彼はそう断言した。リズは目を丸めた。
「私の本当の名前を当てるのが、君の最後の試験です。どんな手を使っても構いません」
彼はくるくるとステッキを回しながら、リズに微笑みかけた。
リズは鬱陶しく感じ、彼から目を反らした。
「なんでもいいのです。他人に興味を持って欲しいんです。それが相互理解、特に夫婦の基礎となります。君のお父さんからは、君を花嫁に相応しくするよう求められていますからね」
「じゃあ、名前が分かるまでなんて呼べばいいの。先生様?」
「好きに呼べばいい。後、私は先生ではない」
「?」
ますます訳が分からなくなった。名前は偽。先生ではない。目の前の男性は自分をからかっているのだろうとリズは決め込み、彼を睨み付けた。
「あなたも私を馬鹿にするのね」
「違います。全て真実です」
彼は飄々と笑いつつ、ステッキを絹のハンカチで拭いていた。
「さて次に。君の名はなんですか、お嬢さん?」
「リズ」
小さい声で吐くように名乗る。どこまでもその名が忌まわしかった。