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一章 人間使いⅠ



気付いたら俺は天井の下にいた。波打ったトタンのそれは穴や墨を引っ掛けた様に汚れている事が零れてくる月光から視認できる。辺りを薄目で確認してみるが、何処かは分からない。正直、分かりたくもない。

 室内である事と何かが俺の腹の上に居座っている事。温もり、柔らかさ――きっと人だ。理解したのはそれだけ。理由までは結局分からないが。そういえば俺はさっき銃声と爆音を聞いた。つまり。

 

 理解した事に追加事項、今俺はかなりの危機に直面している可能性が高い。


 さて、どうするか。こうなると素直に目を覚ます格好になる事も憚られる。だからといってこのままでは状況は一つも変わらない。警察は……来るだろうか、しかしこの辺り一帯には彼等の生息域である傾斜があまり存在しない。よって可能性は低い、いつでもイマイチ頼りない方々である。


 ではどうしようか。目を閉じての思案戦に耽ようかと心内で勇――


「起きたよね、アンタ、今、起きたと思う」


 あっさりとバレてしまった。ソプラノなトーンの言い回しがどうであれ、こうもあっさりと俺が逃げる為の針路を断たれてしまうとこう不明瞭な状況による絶望よりも呆気に取られてしまうもので……、おおよそ反射的に目を開けてしまう。


 俺の腹の上から、ゴシックな雰囲気のドレスで着飾った赤い瞳が淡と見下ろしている。勿論、俺を。燃える様な衣服とは反対に、この少女からはひどく冷たい印象を受ける。

 所々にフリルが付いた真紅のドレスに艶のある黒髪が随分と映えている。ドレスをゴシックと形容したが、彼女自身もまた幻想的な香りを漂わせていた。言うなれば物語を一つ、切り取ってこの世に張り付けた様に。年齢に不相応な、安定した美しさを感じた。


「起きたと感じてるけど、どう?」


「『どう』、ってのはですねぇ……、そんな感じに疑問を投げ掛けられたのは十七年生きて初めてで難しいのですが」


 正直どう反応するとどう転ぶかがこの夜闇よりも測り難い今だ。俺は手探りの意味で丁寧な(一応俺の中で)言葉で、(やっぱり俺の中で)当たり障り無く応じる事にした。


「? 起きたとは言わせてくれない?」


「いやいやいや、言っていいです。起きてますよ、もうそりゃもう体のどこもかしこも」


「下ネタ……」


「えぇ……」


 随分と随分な切り返しである。揚げた足ではあるが、それでもまだ爪先は着いている。しかしこの強引に持っていくこの流れは正に言葉の諸手刈り。こうも二人倒れ込んでしまうと互いに気まずさで動けなくなってしまうだろうに。


「起きたと信じても構わない?」


 と、思ったらそんな事は無かった。どうやら彼女は凍った空気に対応したチェーンを装備していたらしく、ただ瞬きを繰り返す淡白な態度で言葉をどんどん紡いでいく。


 大体何故にこの少女は起きた事を確認したがるのだろうか。困って惑う、正に困惑。壁が押し迫ってくる感じ。

 とりあえず何かしらの登場人物宜しく余計な事まで言ってしまう自身の癖を抑えて、彼女が求めているものだけを返してみる事に。


「はい、そうです」


「肺胞、です? 肺胞とは肺の内部の細気管支の先端にある半球状の小室。肺胞壁を介して肺胞内の空気と毛細血管内の血液との間でガス交換を行うもの。人間には三兆個程あると聞いた」


「は……ぁ……。」


 余りの恐ろしさに血の気が引いていく、思わず視線を逸らしてしまった。返す言葉も無い。これは一本取られた! といった関心の意味では全くなく、本当に返す言葉が無いのだ。日本語が通じない。確かに日本人離れした端正な顔付きではあるが、この場合はどうだろう。付ける薬も無い子なのだろうか。


 風の音だけが空間を漂う。元来の俺の性格ならば舌打ち一つ漏らしてしまう所ではあるのだが、無音がそれを許さない。

 唇を噛み締め、焦点を考えに沈めてしばらく悩んでいると溜め息が聞こえてきた。


「……面白くない、何ともからかい甲斐の無い男」

 

 呆然としてしまった。勿論、俺がだ。


 明らかに俺を見下した声色、口を尖らせて立ち上がった少女を月光が僅かに照らす。本当によくやってくれる。傷というのは負った瞬間は分からないもの、怒りもまた、後から沸いてくる。

 はぁ!? と、漏れそうになった威圧的な疑問符を何とか抑え、立ち上がった少女を凝視する。唾を飲んで――声が出ない。先程の雰囲気とは打って変わり、鋭利な視線が俺を刺す。


「殺した方が良かったか、違うね、殺そうか。面白いのはその汚い面だけだった」


 そうかよ、だが面白くないのはこっちもなんだぜ。


 彼女は言った。殺した方が良かった、と。『俺の意識が途切れる前に聞こえた声』で、だ。先程俺を捕らえたのも彼女だとするならば、俺がどうにか出来る範疇なぞとうに超えている。抵抗すれば、死ぬのみ。そして彼女のよく分からない琴線に触れなかった今、俺はやはり、死ぬのみだ。


 辺りを改めて見回す。事態を理解していくに連れて床に散っていた黒い染みが赤く変わっていく、感覚。最初から赤かったのだろう。だからこそ、分かりたくなかった。

 彼女がやったのだろうか、いや、例えそうでなくても変わらない。上等。恐怖とかは無い、筈だ。


 死ぬのはご免だが、死ぬしかないのならせめてあの女の表情を崩したいと思う。負けっぱなしは主義じゃない、負けるならせめて泥を撒き散らすのが俺の礼儀である。今の状況が負けかも分からんが。


 大きく息を吸う。


「おいてめぇ、あんまり俺を嘗めてくれるなよ?」


 拳を一発叩き込むのも考えたが、それじゃいかにも凡庸、人間の一人で終わる。

 ……なんて言ったが、彼女に俺程度の攻撃が届く様には到底思えない。そもそも振るった暴力が数えられる位だ。二十五回位。


 俺の啖呵を聞き取った少女が僅かに目を細めるのが分かる。少しは何かを感じ取ってくれたのだろうか。

 俺は顔を伏せて、上がる口角を隠しながら極力不気味に見える様、ゆらりと立ち上がる。


 良い風だ、実に生温い。



 

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