一章 四足使いと視界焼き Ⅴ
俺が立ち上がり、歩みを進めるスピードを取り戻すのには五分程掛かった。思っていたよりかは早い回復ではあるが、腹を中心にした鈍く這い纏わる倦怠感はまだまだ否定出来るレベルに達してはいない。
「うわ……吐きそ」
背筋を抜き取られた様に前屈みの姿勢でダイさんに付いて行く。背筋を伸ばすと臍がどっかに行ってしまいそうだったので。顎に伝う涎混じりの脂汗を手の甲で拭った際に触れた薄ら髭の存在が、大きな理由も無く鬱を呼び込んでくる。
そんな俺の状態を気にも留めず、目の前のスーツを着た青年は再び口を開き始めた。アンタがやったのに。
「汚ぇから吐くならガードレールの外でやれ、森ならお前のゲロだって養分にするぜ。コンクリートに世界地図ってのもアリっちゃアリか?」
手をヒラヒラと振り、ケタケタと笑ってダイさんは呟きに答えてくれた。モハメド、とお礼代わりに伝わらない様小声で言った。呟いた自分でも意味が分からなかった、恨むぞアカネ。
「なぁ、キリサキ」
俺に背を向けるダイさんの声、そこには弦の張り具合の変化が感じ取れた。
「俺はよ、キリサキ。アカネを人間にする為に、仲間を集める為に今歩いている。歩くだけじゃない、アカネの為ならば拳を握って、血を散らす、何でも壊す。それが責任、それが俺だ」
責任、ね。ダイさんはこの言葉が好きなのか、それとも――、
何かありそうだと脳を回転させようとした所で、ダイさんは後ろ――こちらを向いて鋭く目を細めた。それだけで。
それだけで氷塊を背に抱いた感覚、猛獣に睨まれた感覚、当てられてはいけないスポットライトに見付かった感覚達が襲い掛かってくる。
血が乾く、顎が浮く、瞳が揺れる。なんだ、なんだこれは、知らない。汗が頬を滑るのが超絶に遅い。なんだ? 死ぬのか?
「これでいいか?」
喉が微かに鳴る。風は、あった。
隙が無い、もう一つ深淵に手を延ばした俺の思考が視線で断たれてしまう。その仕草だけで、顎に鋭鋒を突き付けられた様に彼の瞳に釘付けになってしまうのだ。彼が目線を操作する一連の流れだけで今までの会話が軽く無為に感じてしまう程に、心内で屈伏してしまった。たかが言葉、されど言葉。しかし結局言葉は言葉。本当に、プリントアウトした様な説明に成り下がる。
何故今、なんでこんな事を今。意図も見えない。始めからそうならば、有無を言わずに従っていた筈。
「これで、いいか?」
ダイさんの二度目の言葉で我に返る。汗は地面に落ちて模様を作り、口の中は乾いて舌が張り付いていた。
こちらを見るダイさんに先程の『何か』は無い。
「あ、ああ。はい……これで……はい」
潤んだ目を拭う、急に肩が重くなってきた。
「クハッ、スマンな。でも今ので大丈夫なら後半年は余裕よ。まあこれ以上お話はまた今度って事だ。これ以上はお前が俺の要求を満たしてからだな」
半年って少なくねぇ?
肺に空気を通してから言葉を投げる。
「要求ってどんなんスか」
「あぁ? 急かすねぇ。そうだな……じゃあエンディングテーマでパラパラ踊るとかどうよ」
「……少なくとも現実にエンディングテーマなんて無いですよ」
凄く、凄く嫌な汗の出る質問だなあ。勘弁して欲しいなあ。
「ああ、そうなのか。そうだった。確かにエンディングなんてものは無かったな、圧倒的にどうでも良いけどな。クハッ、まあどう足掻いてもお話はまた今度ってこった」
首を傾けたダイさんは口角を上げて俺の背負った景色を見詰める。目は笑っていないが。俺に近付いてきたダイさんは俺の右手に黒光りする機構を握らせる。
「え……?」
俺が顔を上げると同時に肩に手が置かれる、感覚よりも、見える事実よりも大きな手が。
表情は、分からなかった。
「この話をするならば二人きりの方が良いぜ」
そう口にして俺の真横に立ったダイさんの影は。
突如唸りを纏って襲い掛かってきた白い線、その狂猛な何かによってダイさんは森へと吹っ飛ばされ、俺が転倒してしまう程の風圧とガードレールとの重々しい衝突音を残して消えていった。
反射的に腕で塞いだ視界、服の間から見えたのは幾本もの木々が軋んで砕けて倒れていく光景。歴史を重厚に体現した太さのそれらが、粉塵を伴いながら他の樹に寄り掛かって力尽きていく光景は俺の言葉を根こそぎ奪う。
「なぁ……ッッ!?」
薙ぎ倒される樹木の数々、正体不明の攻撃直接的に倒された木の場所から察するにダイさんは障害物があっても勢いを緩める事は無く、ひたすら真っ直ぐに吹っ飛ばされていった様だ。もう姿は見えない。この一瞬の終始にダイさんの声が聞こえる事は無く、燥いだ木々の崩れゆく叫びが乾風を引き連れて押し寄せて来るだけ。
「……あぁ…………」
歯を強く、強く噛み合わせてから立ち上がる。
握り締めた右手からは冷雨が突き刺さる様に低い温度が流れ込み、その先には黒で埋まる拳銃の寒光一つ。
ダイさんが俺にこれを預けた意味。
「あぁ……見たこと無いんだよねぇ……君の顔…………聞いてない……聞いてないんだよなぁ……もう…………香前さんもさぁ……僕のいう事無視するし…………あぁ帰りたいなぁ……あぁ……」
俺は薄闇掛かった道の先に銃口を向ける、そこにいる筈の陰気な声の主へ。姿こそ見えないが確かに迫り来る足音に。
発砲する。




