プロローグ
――廃工場での出来事だ。
ペダルから足を下ろし、俺は薄ら髭の生えた顎に手を当てて建物を眺める。思えば今日で家出も三日目、そろそろ帰った方が体裁上良いかも知れない。一応高校生なのだから。
チャリンコをシコシコと漕いでいるとその余りの作業的高揚に周りが見えなくなってしまう現象(サイクリングにおけるランナーズハイの様な物であるのだろうが浅学な俺はこれに名前があるのかを知らない現象)に陥ってしまい、気付けばそこは街灯すら情けない、人気のない場所に来ていた。
それは深夜の廃工場、金属である部分は悉く錆を纏い、コンクリートは黒い染みを点々と映していた。外から見ると全体的に沈みきった雰囲気、夜のど真ん中であるこの時間帯だとそれがとりわけ強調されている様に俺は思う。更に周りは山に囲まれてと来た、不気味さの役満デパートだ。
もっとも太陽が昇っていようがここが不気味であろう事は容易に想像出来る訳で、興味を持つ事も無い……いや撤回、持ちたくも無い。そんな普段ならば間違い無く見過ごす風景の一コマなのだが、俺が自転車のブレーキをこの場所で握ってしまったのには当然の如く理由がある訳で。
音がした。弾ける様な――発砲した様な音がしたからだ。
『様な』と表現したのはその音を実際に聴いた訳ではないからで、別段特別な理由でも無い。テレビや映画で得たイメージに近い銃の音、カタカナにすれば『パァン』という音が鼓膜を揺らしたから、俺は『この中で発砲したのかなー』と、そう判断した。
ここまで考えが巡るのに然程時間は掛からなかったが、ほんのりと脳内に漂う靄に気怠さを覚える。何分、ロクに使わない頭だから。
さて、状況を整理したならば出るのはどんな形でも結論である。結論が出たならばそれに続くのは持論を満たす行動であるからして、
「あー、うん、アーメン」
名も知らぬ誰かに向けて十字を切った後にペダルへ足を掛ける。特に決められた神を信じているとかそういうのでは到底無いが、銃には西洋という印象があったので一応、というやつである。一応の使い方を間違っている様に思えるけど、現代におけるそのニュアンスを汲み取れば気にもならない。日本語とは雰囲気で語れてつくづく素晴らしい。さて、俺の行為に必要があるかどうかという疑問は置いておく、二重のステレオタイプな気もしなくは無いが構いはしないだろう。ここには壁も無ければ障子も無い。よって熱心な方々に怒られる心配も無い訳だ。そもそも自己満足を咎められる事自体が迷惑甚だしいと思うのだが。……流石にそれは烏滸がましいか。
面倒事には係わり合いにならない方が良い、加えて銃声なんて危険な臭いが半端無い、こんな事に首を突っ込めばロクな事にならないのは目に見えている。俺は無気力ではあるが死にたがりとは違う。首を吊るなら魚を釣るし、練炭を焚くなら米を炊く。生粋の生きたがり(そんな言葉は無いだろうが)である。
まあこの銃声の件は学校で話す分にはちょっとした武勇伝になるだろう。見たことも無い土地ではではあるがそろそろ帰路に着いてもいい頃合いだ、三日掛けてのんびり帰るとしよう。ふむ学校はいつからだっけな――。
実際内心は文面程に落ち着いちゃいないのだ。手汗は物凄い量が流れ出ているし、ペダルを何回か踏み外したし、さっき切った適当な十字はとんでもなくヘロヘロだった気がするし。だからこそ掻き消せる様に、掻き消せる程頭に血液を巡らせる訳だ。
帰ろう。そう思ってペダルに力を入れようとした瞬間――
先とは比べ物にならない程の破裂音――爆音に耳が劈かれる。
「…………は?」
なんだなんだなんぞなんぞ?
気付いた時には素っ頓狂な声が意識せずとも口から漏れていた。力無く晒された口内はきっとだらしないものだったろう。
――なんて冗談じゃない! もうイカン! 尋常じゃない!
さっきまではあまりに現実離れした事態に若干投げやりというかほんのり現実逃避をしていたけれども、爆発後から肌に当たる砂塵や破片がそろそろ笑えない! 希薄な心情はもうお終いだ!
辺り一帯が砂埃で包まれ、そしてそれらは闇夜と相まって工場の姿を視界から奪う。だが見える必要は無い。帰って帰って帰りまくるのだ。
さあさ、そうと分かれば急がば回れだぜ。もっとも回るのはテメーだがなペダルよ。
「冗談じゃねえぞ……帰るんだ俺は、全く冗談じゃない」
「……そうでもないと思う」
「んぇ!? がっ!?」
突如として聞こえた声に反応し、後ろを振り向こうとしたら何かをやられた。
何をやられたか? 誰の声だったか? 分かる筈が無い。何故なら気付いたら目の前が真っ暗だったのだから。どうなるのだろうか? 知らない。死ぬのだろうか? 知る由も無い。
一つ、言うのならば。
俺は君子では無かった模様。




