誰にも言えない(五千文字お題小説)
お題は「「口の中のイベント」主人公は女性一人称。5000文字以上。」です。
私こと律子はスチャラカなOLと呼ばれ続けてもうすぐ十年。
確かにいい加減でだらしがなくて適当で面倒臭がりで物臭な女であるが、いっぱしに悩み事もある。
口の中に口内炎がいくつもできてしまって、痛くて美味しいものが全然食べられないのだ。
大した悩みではないと思われるだろうが、私にとって飲食は他の欲に増して重要なものなのだ。
美味しいものが食べられない人生など、全然楽しくないから。
口内炎を刺激しないものを選んで食べても、全く楽しくないし、美味しく感じられない。
「ビタミン不足らしいよ、それって」
昼食をウィ○ーインゼリーだけですませた私に現在交際中の藤崎君が言った。
彼との付き合いもすでに三年を超え、もうすぐ結婚も考える時期に入ったと勝手に思っている。
早くしないと彼を他の女子に盗られてしまうような気がするからだ。
そんな私であるからこそつけられた渾名がある。「平成の石田三成」だ。ちょっとだけ意味不明だったので調べてみた。
有名な三成を評しての句があった。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
これを真似た句を同僚の誰かが詠んだらしい。だから、「平成の石田三成」という渾名がついたのだ。
「りったんに過ぎたるものが二つあり 藤崎冬矢と五反田の家」
会社中の女子達の憧れの的であった藤崎君と交際中で、その上五反田に立派な二人の新居を建設中だと噂されている。
藤崎君と交際しているのは事実であるが、五反田の新居などというものは存在せず、根も葉もない作り話である。
それほどの蓄えは、私はもちろん、藤崎君にだってない。
藤崎君と付き合うに至ったのは、私が騙し討ちにしたからだとか、藤崎君が酔った勢いで私を押し倒したからだとか、下世話な仮説がまことしやかに唱えられているが、どれも間違いである。そんなふしだらな関係ではない。
二人が急接近したのは、同僚の香や、今は営業部の次長に昇進した梶部さんに訊いてもらってもいいが、飲み会の席である。
しかし、それはあくまで先輩の女子社員と新人の男性社員の関係を超えるような接近の仕方ではなかった。
私と藤崎君が本当にお互いを意識して、付き合う切っ掛けとなったのは、あの事件である。
あの事件がなければ、私は藤崎君と付き合う事にはならなかったと思う。
飲み会ですっかり意気投合した私達は、仕事でも近しい関係になった。
私が営業補助で、藤崎君が営業。
彼のバックアップを全面的に引き受ける事になった。
当時の課長であり、現在はアメリカ支社設立準備部長の平井卓三さんが気を利かせてくれたのか、それとも単なる偶然なのかは今となっては知る由もないのであるが、それ以降の事を考えると、私にとっては実にラッキーであった。
口さがない人達は、頼りない私と組ませられるのは、新人とは思えないくらいの実力を持っていると言われていた藤崎君しかいなかったからだと言う。まあ、そんな気もしなくもない。多分それが正解だと思う。
そんな凸凹コンビであったが、仕事のパートナーとして、私は他の女子の誰よりも藤崎君のそばにいる事が多くなった。
その事を逆恨みされたのか、時々嫌がらせをされた事がある。
トイレに入っていると、上から水をかけられた事があった。
給湯室に置いてある私の湯飲みに煙草の吸い殻が放り込まれていた事もあった。
只、幸いな事にそういう嫌がらせに鈍感な私は過剰な反応をする事なく、仕事をこなしていた。
「りったん、大丈夫?」
むしろ藤崎君の方が嫌がらせの存在に気づき、私を気遣ってくれたほどだった。
やがて、そんな嫌がらせもされる事がなくなった頃。
いつものように藤崎君と仕事の打ち合わせをし、退社しようとした時だった。
「今日はちょっと一緒に飲もうよ、りったん」
藤崎君が誘ってくれた。その頃、私の方が藤崎君を意識し始めていて、そのせいで同僚の香や今は京都の実家で機織りを手伝っている真弓とギクシャクしかけていたので、
「ごめん、今日は調子悪いから帰る」
本当は嬉しくて天にも昇りそうな高揚感を覚えていたのだが、それを押し殺して言った。
「そうか、残念」
その時の藤崎君。思わず前言撤回したくなる寂しそうな顔だった。
「じゃあ、階下まで一緒に行こうか」
ついそんな事を言ってしまった。
「あ、うん」
藤崎君の顔が明るくなったような気がしたのは、決して私の思い違いではなかったと思う。
エレベーターで一緒に降りると言っても、所要時間は僅か数十秒。
でも、その僅かな時間でさえ、彼のそばにいたい。
私は藤崎君に好意以上の感情を抱いてしまっていた。
「次はいつだったらいい?」
藤崎君が他に誰もいないのを確認して、扉を閉じながら尋ねて来た。
「え?」
私は閉じていく扉に写る自分の姿を見ながらポカンとした。
もしかして、彼も私に好意以上の感情を?
いや、考え過ぎだ。そんなはずはない。
私は藤崎君にとって只の仕事のパートナー。
それ以外の何者でもない。おかしな妄想はほどほどにしておかないと、後で傷つくのは自分だ。
「どうしたの、りったん?」
藤崎君の顔がいきなりアップで視界に飛び込んで来た。
「え、あ、その……」
恥ずかしくなって俯いた時だった。
最初は強風かと思った。でも違った。間違いなく建物が揺れていた。
「地震?」
藤崎君はエレベーターの天井を見渡しながら呟いた。私も立っていられなくなるほどの揺れに驚き、彼にしがみついてしまった。
その直後、安全装置が作動したらしく、エレベーターは緊急停止し、中の明かりも消えてしまった。
「きゃっ!」
らしくない悲鳴を上げて、私は藤崎君に抱きついた。チャンスと思った訳ではない。そんな余裕はなかった。
「大丈夫、ここのエレベーターは安全だよ。すぐに一番近い階で降りられるよ、りったん」
藤崎君は震える私を抱きしめてくれた。
不謹慎ではあったが、このまま死んでもいいと思ってしまった。
「揺れは収まったみたいだね」
しばらくして、藤崎君が言った。確かに足下は安定した。地震はそれほど大きなものではなかったようだ。
「あれ?」
藤崎君が少し間を置いて言った。私も顔を上げて彼を見た。
「どうしたの?」
藤崎君は周囲を見回しながら、
「エレベーターが動かない。どうしたんだろう? 地震は止まったのに」
地震は止まったのにエレベーターは止まったままという早口言葉にもならない状況に陥った。
「緊急電話!」
藤崎君は私を抱いたままで移動し、電話を手で探った。煙草を吸わない彼はライターを持っていないので、エレベーター内は真っ暗闇に近いのだ。
(藤崎君と二人きり……)
もっと冷静な時ならそんな事を思い出し、ドキドキしたろうが、その時はそんな妄想を繰り広げる事もできなかった。
「さっきの揺れで、故障したのかな? つながらないよ」
藤崎君が言った。私の心臓は猛烈な勢いで動き始めていた。
閉じ込められた?
「埋もれてしまった訳じゃないから、酸欠とかにはならないけど、エアコンも停止したみたいだね」
藤崎君はこの状況でも冷静だ。様々な事を分析し、対応しようとしている。
季節は冬。もうすぐクリスマスイルミネーションが街を飾る時期だ。
凍死するほど寒くはならないだろうけど、冷え性の私にはつらい。もうすでに寒くなって来ている。
「りったん」
藤崎君は私が震えているのに気づき、自分のコートを脱いでかけてくれた。
実際はそこまで寒くはないのだろうけど、心細さが体温を奪うようだった。
藤崎君は携帯を取り出し、警備室に連絡した。こちらはすぐに連絡が取れたが、付近のビルでも同様の事故がたくさん起こっているので、レスキュー隊がいつ来てくれるのかわからないという返事だった。エレベーター会社にも通報したらしいのだが、対応に追われているらしく、こちらもすぐには来られないらしい。
警備室の皆さんとは顔見知りなので、私達の事を心配してくれて、何かできる事はないか考えると言っていた。
私は不安に押し潰されそうで、涙が溢れた。中は暗いので、藤崎君には見えていないはずなのに、
「大丈夫。もうすぐ助けが来るよ」
彼は私を優しく抱きしめ、励ましてくれた。
そして、驚いた事に警備員さん達が私達が閉じ込められているエレベーターを見つけ出してくれて、その上ちょうど仕事の打ち合わせに来ていた建設現場のスタッフさん達を呼んで来てくれたのだ。
「藤崎と律ちゃんが閉じ込められているのなら、すぐに助けないと!」
皆さんはそう言って、現場から必要な工具を取り寄せ、救出に来てくれたそうだ。
閉じ込められてから一時間ほどであったが、私達は無事エレベーターから脱出できた。
「ありがとうございました!」
私と藤崎君は、照れ臭そうに立ち去る現場のスタッフの皆さんに頭を下げて礼を言った。
「藤崎にはいつも気を遣わせてるし、律ちゃんにはいつも笑わせてもらってるから、いいって事よ」
主任の草薙さんがそう言ってくれた。私は笑わせているつもりはないのだが?
「もう少し助け出すのが遅かったら、子供ができてたかもな!」
草薙さんのセクハラ発言にも、私は泣き笑いしてしまった。
草薙さん達を見送ってから、結局私は藤崎君と飲みに行った。
だって、藤崎君に、
「付き合ってください」
そう言われたんだもの。
こうして私達は正式に交際をスタートさせたのだ。
「どうしたの、りったん、ニヤついたりして」
藤崎君が不思議そうな顔で言った。今、私達は私のアパートでクリスマスパーティ中。もちろん二人きり。
本当ならロマンチックなレストランかバーに行きたかったんだけど、口内炎がそれを許してくれなかった。
パーティを中止しようと思っていた私に、藤崎君が私のアパートでする事を提案してくれたのだ。
本当は口内炎がしみるので飲みたくないワインも、痛みのせいで甘さを感じる事ができないケーキも食べるつもりがなかったのだが、藤崎君が買って来てくれたので、そうも言っていられない。
「何でもないよ」
付き合い始めた日の事を思い出していたなんて恥ずかしくて言えない。
「ふうん。じゃあ、取り敢えず乾杯しようか」
藤崎君はグラスに白ワインを注いだ。ああ、口内炎が……。今日は堪えようか。
「乾杯!」
微笑み合い、グラスを掲げてグイッと口に含む。
いつもなら口の中でゆったりとその風味と味を楽しむのだが、口内炎がそうはさせじと邪魔してくる。
私は涙目になりながらワインを一気に飲み込んだ。
次は焼きたてでまだ温かい鶏もも。
これも口内炎にはつらいが、藤崎君が並んで買って来てくれたので、涙を堪えて食べた。
全然美味しさを感じられないし、肉汁が口内炎を怒らせて痛みを発した。
そして、最後にメインのケーキ。
藤崎君が切って、私にはサンタさんがいるところを分けてくれた。
私って、いくつだと思われてるのかな? まあ、いいや。
「いただきまあす」
見た目は最高に美味しそうなケーキ。これも有名パティシエが作ったものだというので、よく味わいたいのだが、口内炎様はすでに相当ご立腹で、楽しむ時間を与えてくれなかった。
私は目を潤ませてケーキと格闘し、何とか食べ終えたが、チョコレート製のサンタさんは無理だったので、
「後で食べるね」
そう言って誤魔化した。
「そんなに美味しかった、りったん?」
涙ぐんでいる私を見て、藤崎君が何を勘違いしたのか、そう尋ねて来た。
私は苦笑いして、
「違うよ。口内炎が痛くて、涙が出ちゃったの」
そう言って、中の「悪魔達」が見えるように大きく口を開けた。
「うわあ、ホントだ。すごいね。これは痛そうだなあ」
まるで他人事のように言うので、ちょっとカチンと来た。
「何よお、藤崎君の意地悪ゥ! すっごく痛いんだから! うつしたいくらいなんだから!」
彼を睨みつけて叫んだ。すると藤崎君は爽やか過ぎる微笑みを浮かべて、
「じゃあ、うつしてよ」
そう言うといきなりキスをして来た。
あまりの不意打ちに私は硬直してしまい、反応ができなかった。
藤崎君はあろうことかディープキスをして来た。
彼の舌が私の口の中を動き回り、口内炎ができているところも通過した。
私は恍惚としてしまい、口内炎の痛みも感じる事なく、藤崎君がキスを終えてもトロンとした目で彼を見つめていた。
「口内炎はうつらないんだよ、藤崎君」
やっと言えたのがそんな色気のない言葉だった。
「そう? 僕はうつるって聞いたけど?」
藤崎君はニコッとして応じた。
「もう、バカ」
顔が火が出るのではないかというくらい熱くなっていくのがわかった。
口内炎には、うつるものとうつらないものがあるそうです。