5. 再任の儀 第三の騎士 シュクラツィーレ
「次に、騎士団第三騎士ストリア・タッドレ。私が与えし名は、我が騎士シュクラツィーレ。前へ」
すっと身の重さを感じさせない優雅な足取りで進み出たのは、絹のような真っ直ぐな焦げ茶の髪を腰まで垂らした、翡翠の瞳が知的な印象を与える長身の青年。幾分古めかしい、深い緑を基調とした無駄のない貴族服に身を包む姿は、実際の年齢よりも落ち着いて見える。左目のモノクル、ランサルンア語でいう片眼鏡をついと撫で上げ、彼はゆっくりと跪いた。
「姫君」
しっとりと深く声で、その音をなぞるように彼は口にする。その頬の横を、音もなく深い深い紅茶色の帳が流れていった。
「その名の意味は、シュクラ・ラツィーレ〈真心の智慧〉。貴方が私に授ける言葉は何ですか」
「ただ只管に、書を開き筆を執り、他の一切を廃してこの身に知を蓄えてきました。しかし、それを真に用いるのは、思う心があってこそであることを示す、私は生きた証です」
生まれる前から彼が背負った業は、遥か百年前の栄華を忘れられない一族郎党からのお家再興という期待の枷。気が付けば、日がな一日机に向かい、ありとあらゆる学問を詰め込む日々。
そして運命は、彼に比類なき天賦の才を与えていた。
一時の休む間もなくまるで文書を判で押したように暗記し、それらすべてを指先で水遊びでもしているかのような気楽さで自在に使いこなすことが可能だった。
人を動かすこと、未来を予見することさえ、何の苦痛もなかった。最も強く復興を願い、彼が家のストリア〈救い〉となるよう名づけた母はその才に狂喜し咽び泣いた。
けれど、何もかもが、彼にとって良い道を作る道具となった。それ以上もそれ以下の評価もない、無機質な道具。感情が動かなくなり、けれど表情を操ることさえ容易だった。悪意も善意も、言葉も思いも、何もかも切り捨てられた。
……けれど。
けれどいつも指を小さく切ったような痛みが、胸に在った。容易に振り切ることのできるあまりにかすかなそれを、何故か彼は握り締め守っていた。
それこそが、彼の最後の一線。
それを失えば本当に、自分は人ではなくなるだろうという恐れだとは気づかぬまま。
そうして時が過ぎ、王女の騎士の地位を得てその力を利用しようと約一年と八ヶ月前にラティフィーンに近づいた彼は、未来は本当は読めないことを知った。
ルクレシィアと共に捕まえた内偵者の黒幕退治のための、二ヶ月駆けずり廻った大騒動の後。
王女と金の馬鹿騎士に否応なく感化され、ぼそぼそと「騎士の地位利用」の自分の策を正直に話し、生まれて始めての懺悔をすると、王女はにんまりと笑いこう言った。
〝はじめから、君の騎士勧誘と性格矯正のために巻き込んでたの。君が思うより広い世界へようこそ、シュクラツィーレ〟
満面の笑みの少女を中心に、まるで色とりどりの花が咲いたような鮮やかさをもってどこまでも視界が広がってゆく感覚の中、あの小さな痛みを捨てずに生きてこれたことに、全てのものに感謝した。
心が、息を吹き返す喜びに、目を閉じて。
この王女と共になら心を殺すことはもうないのだろうと、騎士となり己を、この鮮やかな世界を守るために捧げたいと思った。
「シュクラツィーレ。貴方には騎士団の「策謀」の称号を与えます。〈聖青花〉は、スリランを贈り、その証にその花紋を刻んだ〈青銀器〉の単眼鏡を」
その言葉にシュクラツィーレは自らモノクルを外し、掌に乗せて両手で頭上に掲げた。それを受け取りながら、ラティフィーンは考える。
確かに、跪き頭を下げた者のモノクルを首尾よく付け替えることが自分に出来るかは甚だ疑問だ。自分で脱着してくれないと厳かに式ができない、と言い忘れてたのでそれは有り難い助けとなったが。
恭しく垂れた頭から流れた髪では、歪んだ口元が隠しきれていない。
(それもわざとだけどね……)
先程、堂々とクラーフェルドが礼を省いたときには呆れたように息をついていたのに、自らは慇懃無礼とは何事だ。本当にこんな性悪にうちの策を任せていいんだろうかと今更ながらに迷ってしまいそうだ。
しかし、代わりに受け取った細身のモノクルを静かに着けたとき、普段は滅多に目にしないような嬉しそうな顔でいつものように一撫でしたのを見たら、そんな考えも消えてしまった。
常ならば、または策の途中であったならこれも彼の演出であるのだろうが、今回ばかりは違うことをラティフィーンはよく分かっていた。
「私が選んだ聖青花は、高く真っ直ぐに茎をのばしつつも、地下では早く遠く根を張り広がる青緑の策士花」
次いでラティフィーンが手に取ったのは、黒皮で出来た指の出る手袋型の手甲。その甲には鋼鉄の板が嵌められている。それだけで、驚くほどの重さがあった。
それを、手に乗せシュクラツィーレの前に広げる。
「受けますか」
さらりと音を立て後ろへ髪をこぼして、シュクラツィーレが顔を上げた。
「御意のままに」
丁寧に受け取り、慣れた様で手を通すと、真剣な瞳でラティフィーンを見つめた。
「私は、この手甲に紋を刻みましょう。手を握れなくなろうとも離れずに、貴女の許に在る誓いをここに立てて」
決意を秘めた声で述べると、彼はきれいに立ち上がった。
「感謝します。シュツ」
その呼び名に、はっとした顔をしたのもつかの間、手甲を着けた右手を胸に当て、嫌味なほど優雅に腰を折った。
「我が女神に、この地上無類の祝福を」
その大げさな礼を見ながら、やられたままなら可愛いのにと、ラティフィーンは思いかけ、止めた。そしたら私の参謀にはなれないなあと、少し笑って静かに告げた。
「貴方にランサルンアの騎士の神と銀の乙女の加護を」
顔を上げたシュクラツィーレは、誇らしげにラティフィーンを見つめ微笑した。
それに微笑み返すと、ラティフィーンはゆっくりと目線を変えた。