第39話 白の領域
氷牙山脈へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
それまでの冷たさとは質が違う。
ただ寒いのではない。生き物の熱を奪い、動きを鈍らせ、心まで静かに凍らせていくような冷気だ。
ティナがマントの襟を握りしめる。
「……寒い、っていうより痛い」
「分かる」
クジャも珍しく冗談を言わず、吐く息を見つめた。
「空気そのものが尖ってる」
シルヴァは前を見たまま歩き続ける。
肩の傷はまだ少し痛むが、もう戦えないほどではない。ラースの一撃は重かった。重かったが、届かない相手ではないという感触も残していった。
ミルスは足元の氷を見ながら言う。
「ここから先は、もうラースの結界の中と思いなさい」
「結界?」
ティナが問う。
「ええ。明確な魔法陣じゃないけど、この山一帯があの男の意思で満ちてる」
言われてみれば分かる。
風の流れが妙に均一だ。雪の積もり方も、氷の張り方も、不自然なほど整っている。荒々しい自然ではなく、“統制された冷たさ”だった。
「性格出るな」
シルヴァが呟く。
「律儀っていうか、細かいっていうか」
「兄に向かってひどい」
ティナが言う。
「褒めてねぇよ」
クジャがくすりと笑う。
「でも嫌いじゃないんでしょ?」
シルヴァは答えない。
最近、クジャはわざとそこを突いてくる。
氷牙山脈の道は険しかった。
積雪自体は膝下ほどだが、その下に凍った岩場が隠れている。しかも時折、谷の向こうから吹きつける風が視界を真っ白に染める。
山道を半日ほど進んだ頃、四人はようやく一つの異変に気づいた。
氷像。
人間だった。
いや、正確には“人間だったもの”だ。
山道の脇に、旅装束のまま凍りついた遺体が何体も立っている。苦悶の表情のまま、あるいは剣を抜いたまま、時間だけを奪われたように。
ティナが顔をしかめる。
「これ……ラースがやったの?」
「全部じゃない」
ミルスが静かに答える。
「氷牙山脈は昔から危険な場所よ。魔物も吹雪も多い」
「でも、中にはラースの力の痕跡もある」
クジャが氷像の一つに触れようとして、ティナに手を叩かれた。
「触らない」
「気になるじゃん」
「気になるけど駄目」
「厳しいなぁ」
その時、シルヴァが前方へ視線を向けた。
「……来る」
雪の向こう、青白い影が揺れる。
凍狼だ。
だが前に遭遇したものより一回り大きい。牙も爪も鋭く、足場の悪い山道をまったく苦にしていない。
「数は」
「六……いや、九」
シルヴァの返答と同時に、凍狼たちが斜面から滑るように降りてきた。
「散って!」
ティナが叫ぶ。
ミルスの重力杭が先頭の一体を叩き潰す。
クジャのカードが二体の足を止め、シルヴァがそこへ蒼嵐を走らせた。
「残刃」
蒼い軌跡が氷の毛皮を裂く。
以前より出が速い。安定もしている。
ティナも光を圧縮し、細く鋭い一撃へ変えていた。
「聖天閃!」
白い線が凍狼の喉を断ち切る。
以前のティナなら面で払っていたはずの攻撃が、今は針のように狙い澄まされている。
「よし!」
だが凍狼たちは簡単には崩れない。
一体が倒れるたび、残りが配置を変え、より嫌な角度から回り込んでくる。
「統率されてる」
ミルスが眉を寄せる。
「やっぱりラースの意識が薄く繋がってる」
「じゃあ全部倒しても、また来る?」
ティナが問う。
「可能性は高いわ」
「面倒!」
クジャがカードをばら撒きながら笑う。
「ほんとこの兄弟、面倒くさい人ばっかだね」
「“この兄弟”で括るな」
シルヴァが切り返し、最後の一体を風断で沈めた。
静寂。
白い息だけが漂う。
だが、休む間もなく上から細かな雪が落ちてきた。
いや、雪じゃない。氷の粒だ。風の流れが急に変わっている。
ミルスが空を見上げる。
「吹雪が来る」
「自然の?」
「違う」
その短い答えで十分だった。
ラースが、この山全体をこちらへ向けて牙を剥き始めている。
「洞穴でも何でもいいから、風を避けられる場所を探す!」
ミルスの指示に従い、四人は再び山道を駆け出した。
氷牙山脈は、歓迎するつもりなど最初からなかった。




