第35話 出発の朝
第三魔王ネメシスを退けた翌朝、アストラは久しぶりに静かだった。
壊れた回廊の修復に魔導端末たちが飛び回り、外壁にはミルスの結界が薄く張り直されている。昨日まで戦場だった場所とは思えないくらい、都市は淡々と日常へ戻ろうとしていた。
もっとも、その“日常”が長く続かないことを、ここにいる全員が知っている。
「つまり今日は、束の間の休息ってことね」
ティナが食堂の椅子へ腰掛けながら言う。
「束の間どころか、半日あるだけでも破格よ」
ミルスは淡々とパンを切り分けていた。
昨夜の戦闘の疲れがないはずはないのに、見た目にはいつも通りだ。
クジャは卓に突っ伏したまま、片手だけ上げる。
「僕にとっては革命的」
「寝なさいよ」
「寝たら朝だった」
「それは寝たって言うのよ」
ティナが呆れたように返すと、クジャは片目だけで笑った。
シルヴァは少し離れた窓際で剣の手入れをしていた。
それを見て、ティナがすぐに眉を寄せる。
「ねえ」
「なんだ」
「休みって言われたでしょ」
「手入れは休みじゃなくてもやる」
「そういうところよ」
「どこだ」
「融通が利かないところ」
「必要ないだろ」
ティナがため息をつく。
クジャは机に頬を乗せたまま、楽しそうに言った。
「でも昨日より顔つき柔らかいよ」
「そう?」
ティナが見ると、確かにシルヴァの表情は少しだけ鋭さが抜けていた。
第三魔王を倒したからか、新しい技の感覚を掴んだからか、それとも。
「……別に」
シルヴァは短く答える。
だが完全に否定はしない。
ミルスが皿を置きながら言った。
「ネメシスを落とせたのは大きいわ」
「あなた達がやっと、“対魔王戦”の入口に立てたってことだから」
「入口って」
ティナが半目になる。
「今までのは何だったのよ」
「前哨戦」
「厳しすぎない?」
「甘やかす気はないわ」
ミルスはそう言って、クジャの前にも皿を置く。
「ほら、食べなさい。今日は出発前に買い出しと調整、それから少しだけ自由時間」
「自由時間?」
クジャの目が輝く。
「あるの?」
「少しだけ」
「最高」
「どこまでが自由なの?」
ティナが聞くと、ミルスは即答した。
「都市の中だけ」
「逃げたら?」
「結界で弾く」
「自由とは」
クジャが真顔で呟き、ティナが笑う。
朝食を終えたあと、四人はアストラの中央広場へ出た。
高い石柱の間を風が抜け、壊れた橋の向こうでは浮遊結晶が静かに瞬いている。
戦いの痕はまだあちこちに残っていた。
それでも、昨日までより穏やかに見えるのは、ここがミルスの居場所だからかもしれない。
「ねえ、シルヴァ」
広場の縁を歩きながらティナが言う。
「次はどこに向かうの?」
「氷牙山脈」
答えたのはミルスだった。
「第六魔王――ラース・ライズの縄張り」
ティナの表情が少しだけ固くなる。
「……やっぱり、そこに行くのね」
「避けても意味がないわ」
ミルスの声音は冷静だ。
「ラースは第三勢力。仲間でも敵でもない。でも核を集めている以上、放置できない」
クジャが眼帯に軽く触れた。
「しかも今、第二のコアを取り込んでる」
「前よりずっと強い」
その一言で、空気が少しだけ重くなる。
シルヴァは歩みを止めずに言った。
「だから行く」
「シンプルね」
「分かりやすいだろ」
「分かりやすすぎるのよ」
ティナが呆れたように返しながらも、その口元は少し緩んでいた。
自由時間のあいだ、ティナは図書室で地図を確認し、クジャはまた魔導端末たちと遊び、シルヴァは一人で高塔へ上がった。
風を読むためでもある。
それ以上に、少しだけ一人で考えたかった。
氷牙山脈。
ラース。
兄。
仲間じゃない。
敵でもない。
だからこそ、一番厄介だ。
「……」
高塔の縁に立つ。
アストラの向こう、遠い地平のさらに先。氷の匂いが微かに混じっていた。
そこへ足音がした。
「やっぱりここ」
ティナだった。
「お前も一人になりたいタイプじゃないのか」
「なりたい時もあるけど、今日は違う」
彼女はシルヴァの少し隣へ立つ。
「ラースのこと、考えてた?」
「少しな」
「少しだけ?」
「大体それくらいだ」
「嘘ね」
ティナは笑った。
「顔に出るもの」
「出てねぇよ」
「出てるわよ」
風が二人の間を抜ける。
「……ラースって」
ティナが慎重に言葉を選ぶ。
「本当に、倒さなきゃいけない相手なの?」
シルヴァはすぐには答えなかった。
「分からねぇ」
やがて低く言う。
「でも、放っとける相手じゃない」
「うん」
「それに、あいつは自分から止まらない」
「そういう人なのね」
「そういう奴だ」
その時、遠くで何かがきらりと光った。
氷の反射光みたいな、一瞬の白。
シルヴァの目が細まる。
ティナもすぐに気づいた。
「……今の」
「ああ」
クジャの声が、なぜか背後からではなく、すぐ頭の上から降ってきた。
「見てるよ」
二人が振り向くと、クジャは高塔の手すりの上に座っていた。
いつの間に登ってきたのか本当に分からない。
「危ないって何回言えば分かるの」
ティナが言う。
「高いところ好きなんだよね」
「猫みたい」
「褒めてる?」
「半分」
クジャは笑ってから、眼帯を軽く押さえた。
「でも本当に見てる」
「ラース」
その名に、三人の空気が引き締まる。
「もうこっちが動くの、分かってるんだね」
クジャが続ける。
「待ってるよ、たぶん」
シルヴァは遠くの白い光を見つめたまま、短く言った。
「ならちょうどいい」
その声には、迷いよりも先に覚悟があった。
出発の朝は、静かに終わる。
次の旅路は、氷の山脈へ。




