第29話 影の前触れ
休息の午後が終わった、その夜。
アストラの空気は明らかに変わっていた。
最初に異変に気づいたのはクジャだった。
寝台の上で目を閉じたまま、急に身体を起こす。
「……来る」
右目の奥が、ずき、と疼く。
眼帯の下で魔王の欠片が脈打つ。
シルヴァもすぐに目を開けた。
「第三か」
「たぶん……違う」
クジャの声が珍しく低い。
「もっと近い」
ティナも起き上がる。
「どういうこと?」
言い終わる前に、都市全体が微かに揺れた。
ドォン――
低い振動。
何かがアストラの外壁に触れたような音だ。
ミルスが部屋へ飛び込んできた。
「起きて」
「結界に触れた」
「誰が?」
ティナが剣を掴む。
ミルスは短く答えた。
「ネメシス」
それだけで十分だった。
四人はすぐに高層の外回廊へ向かった。
アストラを見下ろせる位置から、都市の外縁を見る。
夜の闇の中、黒い霧が都市を囲むように漂っていた。
霧そのものが意志を持って蠢き、結界へじわじわと侵食している。
その中心。
一際濃い影の上に、第三魔王ネメシス・ヴァイルが立っていた。
「こんばんは」
風に乗る声。
静かなのに、やけに鮮明に届く。
「第四」
ミルスが冷たく言い返す。
「夜襲とは趣味が悪いわね」
「お前の都市は、昼に攻めても夜に攻めても変わらないだろう」
ネメシスの視線が、すっと上がる。
ティナ。
シルヴァ。
クジャ。
最後にクジャの眼帯の位置で止まった。
「やはり、そこにいる」
クジャが舌打ちした。
「しつこいなぁ」
「欲しいものは手に入れる主義でね」
ネメシスの背後で黒い霧が形を変え始める。
人型。獣型。槍。剣。影の軍勢。
ティナが息を呑む。
「全部、分身……?」
「そうよ」
ミルスが杖を構える。
「アストラを削りながら、こちらの消耗を狙ってる」
「面倒な」
シルヴァが言う。
「でも、来たならちょうどいい」
その声に、ティナが振り向く。
「シルヴァ?」
「逃げられる前に叩く」
ミルスがわずかに目を細めた。
「できるの?」
「前よりはな」
風が足元に集まる。
蒼い気配が、以前より静かに、鋭く。
クジャはその変化に気づいて、小さく笑った。
「形になってきたね」
「うるせぇ」
ネメシスの影が、アストラの外壁を越えようと伸びる。
その時、ミルスの魔法陣が都市全体へ広がった。
「侵入させない」
青白い光が外壁に走り、影を一度弾き返す。
だがネメシスは動じない。
「なら」
黒い霧がさらに濃くなる。
「結界ごと削る」
アストラの上空が、影に覆われ始めた。




