第1話 風の少年
風の匂いで、血は分かる。
雪の匂いと土の匂いの奥に、鉄みたいな臭気が混ざっていた。
それが魔物のいる証拠だと、シルヴァはもう考えるまでもなく知っている。
アステラ大陸北端、辺境の村ラヤ。
冬の終わりに差しかかったこの土地は、昼でも空が薄暗い。遠くの山脈から吹き下ろす風が冷たく、まともな旅人なら街道を外れようとは思わない。だがその分、王都から遠いこういう土地ほど、何かが起きても助けは遅い。
村の柵の前で、シルヴァは剣の柄に手を乗せた。
「三体……いや、五体か」
白い息がこぼれる。
彼の視線の先、雪原の起伏の向こうで黒い影が揺れていた。狼に似ているが、脚が一本多い。顎は異様に大きく、牙の代わりに刃物のような骨が生えている。北方に棲む魔獣。群れで人里を襲う、ひどく性格の悪い連中だ。
村人たちは柵の内側で固まっていた。誰もが怯えた顔をしている。
それでも、泣き出す子どもの口を塞ぎ、武器にもならない農具を握って立っている。逃げ場がないからだ。
「シ、シルヴァ……っ」
村長の声は震えていた。
「頼む。あれが村に入ったら……」
「分かってる」
シルヴァは短く返した。
元から長々話す方ではないし、こういう時に気の利いた言葉をかける性格でもない。ただ、背中を押してほしいなんて一度も思ったことがないくらいには、彼はこの手の戦いに慣れていた。
年は十六。
白髪、蒼い瞳、身長は百七十二。
年齢のわりに細身だが、そのぶん無駄がない。風に削られたみたいな鋭さだけが残っている。
シルヴァは、ゆっくり柵の外へ出た。
「お、おい! 一人で行くのか!?」
「一人で十分だ」
風が吹いた。
長めの白髪が揺れる。
ボーンウルフたちが彼に気づく。
雪を蹴り、同時に駆け出した。牙が鳴る。喉の奥で獣じみた唸り声が混ざる。
シルヴァは息を吐いた。
「……来い」
最初の一体が跳ぶ。
速い。普通の人間なら反応する前に喉を裂かれる速度だ。
だが、シルヴァの足元で風が渦を巻いた。
「風脚」
身体が一瞬で加速する。
踏み込みと同時に視界が流れ、彼の姿はボーンウルフの真横に滑り込んでいた。
抜刀。
銀の閃きが一度だけ走る。
遅れて、魔獣の首から赤い線が浮かび上がった。
雪の上に血が散る。
群れが一瞬たじろいだ。
それでも止まらない。二体、三体が左右から挟み込むように飛びかかる。
「風刃」
剣が半円を描く。
シルヴァの刃が届く前に、空気そのものが裂けた。
横殴りの衝撃が魔獣の身体を叩きつける。骨の牙が折れ、肉が裂け、二体まとめて雪原へ転がった。
残り二体。
そのうち一体が妙に大きい。群れの頭だ。肩の骨格が盛り上がり、目が赤く濁っている。魔力を余計に取り込んで変異した個体だろう。
「面倒なのが混じってるな」
頭目が低く唸った。
次の瞬間、地面を抉るほどの力で踏み込んでくる。
シルヴァは剣を逆手に持ち替えた。
真正面から迎え撃つ気はない。速さで上を取る。いつも通りだ。
だが頭目は、普通のボーンウルフより一段速かった。
「……っ」
爪が頬を掠める。
熱い痛みが走る。血が滲む。
その程度で済んだのは、ギリギリ避けたからだ。
もし半歩遅れていたら、顔ごと持っていかれていた。
村の中から悲鳴が上がる。
シルヴァは舌打ちした。
「やっぱりちょっと強ぇな」
だが、怖くはない。
怖いと思う前に、身体がどう斬るかを考える。
頭目が再び飛ぶ。
シルヴァは大きく踏み込んだ。
「風葬」
剣が低く唸る。
風が彼の身体に絡みつき、一本の線になる。
シルヴァの刃が、頭目の真下から斜め上に走った。
何が起きたのか、誰もすぐには理解できなかった。
魔獣の巨体が、空中でずるりとずれて落ちる。雪にぶつかった瞬間、血飛沫が白を赤く染めた。
残る一体は、すぐに背を向けた。
頭目を失った群れは脆い。森の方へと逃げていく。
シルヴァは追わなかった。
村に背を向けていない以上、それ以上の危険はない。
剣を収めたところで、背後から安堵の息が漏れる。
「た、助かった……」
「ほんとに、一人で……」
「すげぇ……」
村人たちの声は、畏れと安心が半分ずつ混ざっていた。
シルヴァはそれを聞き流し、頬の血を親指で拭う。
「片付いた。今日はもう外に出るな」
それだけ言って、踵を返す。
だが歩き出す前に、村の子どもの声が飛んできた。
「ねえ! あんたの名前!」
シルヴァは少しだけ肩越しに振り返った。
「シルヴァだ」
「シルヴァ……?」
子どもは目を丸くし、それから周りの大人たちがざわつき始める。
「もしかして……」
「噂の……」
「白髪の剣士……」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「風葬のシルヴァ……」
その呼び名が風に乗る。
広がっていく。
シルヴァは、少しだけ顔をしかめた。
「勝手に呼べ」
名前なんてどうでもよかった。
ただ、戦って、生き延びて、面倒事を片付ける。それだけだ。
けれど――その日の夕方。
彼の元へ、もっと大きな面倒事がやってくる。
村はずれの古い礼拝堂。今はもう誰も使っていない、崩れかけた石造りの建物。
その前に、一人の少女が立っていた。
茶色の髪を後ろで束ね、細身の剣を腰に差している。年はシルヴァと同じくらいだろう。顔立ちは整っているが、可愛いよりも凛々しい方が先に来る。何より、目が強い。
彼女はシルヴァの姿を見つけると、真っ直ぐ歩み寄ってきた。
「あなたがシルヴァ?」
「……だったら何だ」
「話があるの」
即答だった。
迷いがない。
シルヴァは彼女をじっと見た。
ただの旅人ではない。身体の芯に、光のオーラが通っている。剣を握れる人間の立ち方をしていた。
「断る」
「まだ何も言ってないでしょ」
「面倒そうだから断る」
「面倒よ。でも断られたら困る」
図々しい。
シルヴァは内心でそう思いながらも、少しだけ興味を持った。ここまでまっすぐ食い下がってくる相手は珍しい。
「名前は?」
「ティナ」
少女は言う。
「ティナ・ルクス。勇者庁所属――だった者よ」
「……だった?」
「今は勝手に動いてる」
「なおさら面倒だな」
ティナは構わず続ける。
「ノクティス大陸の封印が揺らいでる」
その言葉に、シルヴァの目がわずかに細まった。
ノクティス大陸。
神と魔王の戦争の果てに封じられた、闇の大陸。
名を口にするだけで顔色を変える人間も多い。
「根拠は?」
「私が見たから」
「答えになってねぇ」
「神殿の観測結果もある。魔力潮流の変化、封印碑の亀裂、北方各地の魔獣増殖。どれも一致してる」
シルヴァは黙る。
それだけ揃えば、ただの噂とは言えない。
ティナは一歩近づいた。
「それに……あなたの風も、もう気づいてるはず」
「何をだ」
「向こう側から、呼ばれてるってこと」
風が吹いた。
冷たいはずなのに、その瞬間だけシルヴァの背筋を嫌な熱が這った。
図星だった。
最近、妙な夢を見る。
黒い塔。闇に沈んだ大地。何かがこちらを見ている気配。
起きた後も、風が不穏に騒ぐのだ。
ティナは言う。
「アステラ中央、王都レグナで闘技大会が開かれる」
「……それが?」
「表向きは武闘大会。でも本当は違う。強い人材を集めて、ノクティス探索隊の候補を選別する場よ」
「探索隊?」
「勇者庁と王都騎士団の合同。封印が本当に揺らいでるなら、誰かが行かなきゃいけない」
ティナはそこで一度言葉を切り、シルヴァをまっすぐ見た。
「私は行く」
「勝手に行け」
「だから、あなたも来て」
「断る」
「あなたじゃなきゃ困るの!」
ティナの声が強くなる。
ただのお願いじゃない。焦りと覚悟が混ざっていた。
シルヴァは溜息を吐いた。
「なんで俺だ」
ティナは、少しだけ躊躇ってから答えた。
「……神殿の記録にあるの」
「“風を葬る者は、闇を断つ”」
その瞬間、礼拝堂の奥で何かが軋んだ。
古い扉が、ひとりでに開く。
中から吹き出したのは、冷たい風と黒い瘴気だった。
ティナが剣を抜く。
「来る!」
闇の中から現れたのは、さっき倒したボーンウルフとも違う、人型の影だった。全身をローブで覆い、顔は見えない。だが人間ではない。存在そのものが歪んでいる。
影は二人を見ると、嗤うように肩を揺らした。
「見つけた」
声は男とも女ともつかない。
乾いていて、どこか底冷えする。
「風葬のシルヴァ。光の残滓。どちらも、闇の前では同じだ」
ティナが斬りかかるより早く、シルヴァが前へ出ていた。
「邪魔だ」
剣が抜かれる。
風が唸る。
影は腕を振り上げ、黒い刃を放った。だがそれは、シルヴァの風に触れた瞬間、形を保てなくなる。
「風刃」
空気が走る。
影の身体が横に裂け、黒い煙へと崩れた。
それでも消え切らない。
煙の中から、最後に声だけが残る。
「王都で待つ」
「闘技場で、試してやろう」
声が途切れる。
風だけが残った。
ティナは剣を握ったまま、息を整える。
「……今の、何」
「知らねぇ」
シルヴァは剣を収め、礼拝堂の奥を睨んだ。
「ただ、面倒事が向こうから迎えに来た」
「じゃあ……」
「王都に行く」
ティナが目を瞬かせる。
「えっ」
「お前が言ったんだろ。闘技場」
シルヴァは彼女の横を通り過ぎる。
「行ってぶっ潰せば済む話だ」
ティナは一瞬呆気に取られ、それから小さく笑った。
「……単純」
「うるさい」
夕暮れの風が、二人の背中を押した。
こうして、風葬のシルヴァは動き出す。
王都レグナ。
闘技場。
そして、まだ見ぬ“眼帯の少女”との出会いへ向かって。




