第9話 銀貨の価値
「……必ず、とはお約束できません。でも、全力を尽くします」
震える声でそれだけ告げると、私は男性の傍らに再び膝をつき意識を集中させた。
あの家族から託された、なけなしの銀貨五枚。その重みが、見えない鎖のように感じられる。
頭の中に、部屋に置いてきた命脈の書のページを鮮明に思い浮かべる。【一般的な感冒症状の緩和薬】——『使用』コスト、五千。この価値を対価とする。心の内で、強く、ただ強く念じる。
——『使用』!
瞬間、何もなかったはずの手の中に、ふっと冷たい感触が現れた。
はっとして目を開けると、そこには小さなガラス瓶が握られていた。中には、わずかに濁った薬液が満たされている。これが……本が生み出した、異世界の薬。ごくりと喉が鳴った。
「これを飲ませてみます」
傍らで見守る母親に短く告げ、男性の上体をそっと起こすのを手伝ってもらう。
ガラス瓶の小さなコルク栓を抜き、慎重に、彼の乾いた唇へと運んだ。薬の持つ独特の、少し甘いような苦いような匂いが鼻をつく。
男性は弱々しく首を振ったが、僅かな隙間から、少量ずつ、根気よく流し込んでいく。
全て飲ませ終えると、再び彼を寝台に横たえた。
あとは……ただ、待つしかない。薬が効いてくれることを。この、なけなしの希望が目の前の命を繋ぎとめてくれることを。
部屋には、男性の荒い呼吸音と、家族のすすり泣きだけが重く響いている。一分一秒が、拷問のように長く感じられた。
どれほどの時間が経ったのだろう。
不意に、男性の呼吸のリズムが、ほんのわずか穏やかになった気がした。慌てて額に手を当てる。まだ熱いが、先ほどまでの、触れるのも躊躇われるほどの灼熱感は薄らいでいる……? 咳き込む回数も、明らかに減っていた。
「……少し、効いているのかもしれません」
かすかな希望に声が震える。母親が祈るように私の腕を掴んだ。
だが——その希望は、あまりにも儚かった。
一時的に持ち直したかに見えた男性の容態は、それから間もなく再び急速に悪化し始めたのだ。
呼吸はさらに浅く、速くなり、顔色は見る間に悪くなっていく。激しい咳が続き、そのたびに身体が大きく揺れた。
あの薬は、やはり「症状緩和薬」でしかなかった。根本的な原因——肺の奥深くで進行しているであろう炎症そのものを叩く力はなかったのだ。
「そんな……嘘でしょう……?」
できることは? 体位を変える? 水分は……もう、喉を通らない。他に何か……何か、私の知識で……! だが、聴診器も、レントゲンも、抗生物質も、酸素吸入もないこの世界で、今の私にできることなど、もう残されていなかった。
ただ、苦しげに喘ぐ彼の傍らで、無力感に打ちのめされることしかできない。
部屋のろうそくの炎が、最後の抵抗のように揺らめいた、その時。
男性の浅い呼吸が、ふつりと、止まった。張り詰めていた糸が切れたように。
部屋に、完全な静寂が訪れた。永遠にも思える沈黙の後、母親の、魂ごと引き裂かれたような慟哭が、壁を震わせた。
……助けられなかった。
あの銀貨五枚を使い、本から薬を生み出して……それでも、救えなかった。私の知識も、本の力も、死を前にしては、あまりにも無力だった。
どれだけの時間、その場に立ち尽くしていただろう。気づけば、窓の外は白み始めていた。涙も枯れ果てたのか、母親は虚ろな目で、しかし、静かな声で私に言った。
「……お姉さん。……本当に、ありがとう」
深く、深く、頭を下げられた。
「施療院でも……薬師さんのところでも……もう駄目だって……誰も、まともに診てもくれなかった。それなのに、あんただけは……あいつのために、最後まで……。……本当に、感謝、してるよ」
感謝……。その言葉が、冷たい錐のように胸に突き刺さる。感謝される資格など私にはない。私は、無力だったのだ。価値が足りないという、ただそれだけの理由で、救えるはずの命を見殺しにしたのだから。
重い足取りで家を出た。朝の光が目に痛い。心の中は、冷たい闇に閉ざされたままだった。
優しさだけでは救えない。知識だけでも救えない。必死さだけでも足りない。
あの人を救うには、もっと確実な力が必要だったのだ。感染を抑える薬、呼吸を助ける技術。それらは全て、あの本の中にあった。だが、それらを「知識習得」し、「生成解放」するには、今の私には到底支払えない価値が必要だった。
——価値(お金)が足りなかった。だから、死んだ。
その冷酷な事実だけが、繰り返し、繰り返し、頭の中で響いていた。
人の命を救いたい。そのために医師を目指した。ならば、感傷も理想も今は不要だ。
必要なのは、ただ一つ。どんな病も怪我も捻じ伏せる絶対的な「力」。そして、それを与えてくれる、命脈の書の完全な解放。
そのためには、ミランがいる。莫大なお金が。手段を選んでいる場合ではない。
自分の部屋に戻り、空になった財布代わりの小さな袋を意味もなく握りしめる。そして、机の上の本を睨みつけた。あの膨大な項目のリストと、法外なコスト表示。昨日までは絶望の象徴でしかなかったそれが、今は、歪んだ道標に見えた。
冷たい、硬い決意が、心の奥底で、ゆっくりと形を成していくのを感じていた。




