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第7話 市場の噂

 キズハ湿布を作り、街を歩き、声をかける。そんな日々が、季節が少し移ろうのを感じるくらいには続いた。

 銅貨は少しずつ貯まり何度か銀貨に両替することもできた。とはいえ、手元にある価値は、命脈の書(ルート・オブ・ライフ)の要求する桁には遠く及ばない。日々の食費と、わずかながらもキズハの仕入れとして市場で買うことも覚えた。


 お金は遅々として蓄積しなかったが、変化が出てきた。

「あの娘の手当ては、ちょっといいらしい」そんな小さな評判が、主に回る路地裏のあたりで囁かれるようになったのだ。


 子供の擦り傷や、主婦の火傷、職人の切り傷。キズハ湿布そのものの効果は「軽微」だが、私が施す「洗浄」と「清潔な処置」が結果的に治癒を早めているのだろう。銅貨一枚という手軽さもあってか、以前よりは依頼される頻度が増えていた。


 依頼が増えれば人々の生活や困り事に触れる機会も増える。そして、やはり気になるのは「風邪」——長引く咳や熱、身体の倦怠感を訴える声の多さだった。


「うちの子、もう一週間も咳が止まらなくてねぇ……」


 先日キズハ湿布を施した女性が、そう言って溜息をついた。


「何か、咳に効く薬草とか、ご存じないですか?」


 相手が知るはずは《《ない》》と分かっていながら、つい尋ねてしまう。


「さあ……。市場の薬草屋で何か買ったけど、気休めにもならなくて。施療院で祈ってもらったんだけどねぇ」


 女性は力なく笑った。施療院——広場の東にある、聖ルカ施療団の建物だ。あそこの治療は無料に近いが、効果は限定的、という話をよく耳にする。


 薬草屋にも何度か足を運んでみた。「咳に効くものは?」「熱を下げるには?」と尋ねても、店主はありきたりな乾燥した葉や根を指し、「これを煎じて飲むといい」と言うばかり。

 本に書かれていた「??草の根」「??樹の皮」といった具体的な名前を出してみても、首を傾げられるか、あるいは法外な値段をつけられそうな雰囲気を感じて、それ以上は踏み込めなかった。

 そもそも、あの本では、硬貨が価値として表記されているように、記載された材料名が、この世界の一般的な名称と同じなのかどうかも分からない。


 その夜、部屋に戻り、今日稼いだ銅貨と銀貨を数える。目標である「感冒薬」の「知識習得」に必要な価値五万は果てしなく遠い。

 「使用」だけでも五千ミラン……銀貨五枚分。これなら、もう少し頑張れば手が届くかもしれない。だが、たった一回分の薬のために、銀貨五枚……。それで治らなかったら? あるいは、すぐに別の人が風邪をひいたら? 根本的な解決にはならない。やはり目指すべきは「知識習得」だ。だが……。


 命脈の書(ルート・オブ・ライフ)を開き、感冒薬のページを睨みつける。ため息が漏れた。


 数日後、市場で薬草を眺めていると近くで女性たちが噂話をしているのが聞こえてきた。


「聞いた? 西地区の鍛冶屋の親方、とうとう寝込んじまったって」

「ああ、あの頑固者の……。こじらせたんだろ、風邪を」

「施療院に行ったらしいんだけどねぇ。『あとは神に祈るしかない』って言われたとか……」

「まあ……。でも、ネイル様なら、何か違ったかもしれねえねぇ」

「ああ、あの若い治療師様かい? 優しくて、よく話を聞いてくださるって評判だね。うちの婆さんも、あの方に診てもらってから、気が楽になったって言ってたよ」

「ただ、病そのものをどうこうできるわけじゃないんだろう? あの方も結局は施療団のお方だからねぇ」


 ネイル……。また、その名前を聞いた。聖ルカ施療団の中でも、特別な存在として認識されているらしい。

 貧しい者にも親身になってくれる優しい治療師。だが、その治療法は、やはり施療団の枠を出ないのだろう


 ふと、薬草屋の店先に並ぶ見慣れない乾燥した根が目に留まった。他の薬草とは違った値の張りそうな値札がついている。店主に尋ねてみた。


「これは……何という薬草ですか?」

「ん? ああ、こいつは『ジンジャー・ルート』だよ。遠い南の方から来るもんでね、ちと高いんだ。身体を温める効果があるって言われてるけど……まあ、気休めだね」


 ジンジャー……生姜? 見た目は少し違う気もするが、もしそうなら……。いや、確か感冒薬の材料に、そんな名前はなかったはずだ。だが、「身体を温める」という効能は、風邪の初期症状には有効かもしれない。しかし、値段を見ると、今の私には手が出せない。


 また一つ、知識の断片を得ただけか。部屋に戻り、石臼でキズハを潰しながら考える。地道なミラン稼ぎ、地道な情報収集。そして、圧倒的に足りない本の知識を解放するための価値。


 キズハの経験は希望になったが、それだけでは足りない。あの風邪薬……せめて「使用」する余裕があれば、もっと多くの人を助けられるかもしれない。そのためには、銀貨五枚。今のペースなら、あとどれくらいかかるだろうか。


 焦りが、じわりと胸を蝕むのを感じながら、私は黙々と石杵を動かし続けた。


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