第66話 次なる道へ
アルマン子爵は隣にいた執事に高飛車に言った。
「やあ。クラリス嬢に会いに来たのだが、取り次いでくれるかね? 良い知らせがあると聞いてね」
その目は、明らかに私を無視し、その奥には計算高い光が揺らめいていた。厄介なことになりそうだ、と私は内心で舌打ちした。
予期せぬ闖入者に内心で眉をひそめつつ、私はそのまま応接室へと向かった。
部屋では、ヴァレリウス卿夫妻が、娘の回復ぶりに安堵の表情を浮かべながらも、どこか落ち着かない様子で待っていた。
おそらく、先ほどのアルマン子爵の訪問が気になるのだろう。クラリス嬢も、少し遅れて部屋に入ってきたが、その表情は硬い。
場の空気が重くなった、まさにその時、執事が扉を開け、訪問者を告げた。
「アルマン子爵様がお見えになりました」
執事に促されアルマン子爵が応接室へと入ってきた。
彼は、部屋にいる私やヴァレリウス卿夫妻には一瞥もくれず、上質な衣服をひるがえしながら、まっすぐにクラリス嬢へと歩み寄った。その顔には、自信に満ちた、芝居がかった笑みが浮かんでいた。
「やあ、クラリス嬢。見違えるほど美しくなられたと聞いて飛んできたよ! その傷跡も、もうほとんど分からないじゃないか。素晴らしい!」
彼は、芝居がかった仕草で彼女の手を取ろうとする。その言葉には、以前の彼女の苦悩に対する配慮など微塵も感じられない。ただ、彼女の「見た目」が回復したことへの、浅薄な賞賛だけがあった。
だが、アルマン子爵の伸ばされた手は空を切った。クラリス嬢が、静かに一歩、身を引いたからだ。そして、彼女は、以前の俯きがちな様子とは全く違う、凛とした、強い意志を宿した瞳で、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「……お久しぶりですわ、アルマン様。ですが、突然どういったご用件でしょうか。私たちの婚約は、既に解消されたはずですけれど」
そのきっぱりとした口調に、アルマン子爵は一瞬、虚を突かれたような顔をした。自信満々だった笑みが、わずかに引きつっている。
「な、何を言うんだ、クラリス嬢。あの時は……その、君があまりにも心を痛めていたから、少し距離を置いただけではないか。君の美しさが戻った今、我々の未来について、改めて……」
「もう結構ですわ」
クラリス嬢は、彼の言葉を、今度ははっきりと遮った。その声に、もう震えはなかった。
「私が絶望の淵にいた時、あなたは慰めの言葉一つなく、ただ一方的に婚約を破棄なさいました。私の価値は、この顔の傷一つで消え去るものだったのでしょう。……今の私の顔を見て、再び好意を口にするような方を、私はもう、信じることはできません」
「なっ……! 私が、そんな薄情な……!」
「それに、気づいたのです」とクラリス嬢は続ける。「本当に大切なのは、見た目ではなく、困難な時に隣で支え守ってくれる強さと誠実さなのだと。……失礼ながら、あなたにそれがあるとは、私には到底思えませんわ」
彼女の言葉は静かだったが、確固たる拒絶の意思を示していた。
アルマン子爵は、顔を真っ赤にして何か言い返そうとしたが、言葉が出てこないようだった。ヴァレリウス卿夫妻は、娘の毅然とした態度を、ただ黙って、しかし力強く支えるように見守っている。
やがて、アルマン子爵は何も言えずに、屈辱に歪んだ顔で、まるで逃げるように応接室を去っていった。
扉が閉まると、部屋にはしばしの沈黙が流れたが、それは決して重苦しいものではなく、むしろ、古いしがらみが断ち切られたような、清々しさすら感じられた。
「……よく言ったね、クラリス」
ヴァレリウス卿が娘の肩を抱き優しい声で言った。クラリス嬢は父親の胸に顔をうずめ、小さく頷いた。私は、その光景を静かに見守っていた。人の心をも、傷跡と共に癒す。それもまた、医療の持つ力なのかもしれない。
その数日後、私はミーナの店を訪れていた。定期的な薬の補充と、彼女の様子を見るためだ。店は相変わらず繁盛している。
「師匠、いらっしゃい!」
奥から出てきたミーナは笑顔で私を迎えてくれた。だが、その笑顔に以前のような屈託のなさが少しだけ欠けているような気がした。どこか、元気がないように見える。
「ミーナさん、変わりありませんか? 体調でも……」
「ううん、大丈夫だよ! ちょっと、最近忙しくて……」
彼女はそう言って笑うが、その目が僅かに泳いだのを私は見逃さなかった。施療団のことか、それとも別の悩みか……。だが、彼女が自ら口にしない以上、私が踏み込むべきではないだろう。
「そうですか。無理はしないでくださいね。……それで、薬の補充ですが」
私は、薬の受け渡しと対価の受け取りを手早く済ませ、当たり障りのない会話を少しだけ交わして、店を出た。彼女の心の中の小さな翳りが、少しだけ気にかかった。
自分の部屋に戻り、私は蓄積された価値のことを考える。クラリス嬢の成功報酬(百万)も受け取ることができた。これで、命脈の書の、さらに先の領域へと進むことができる。
何を選んだとしても莫大な価値が必要なことに変わりはない。そして、その価値を得るためには、私はこれからも、この街で「悪徳医者」として高額な対価を要求し続けなければならないのだ。
クラリス嬢の笑顔、ミーナの健気さ、そして、救えなかった命の記憶……。様々な思いが交錯する。だが、私の進むべき道は、もう決まっている。
次なる目標となるであろう本の項目を、静かに、しかし強い意志をもって見つめていた。物語は、まだ始まったばかりなのだ。




