第56話 東へ
木工ギルド長の息子の手術は成功した。
術後の経過も順調で、数日後には意識もはっきりと戻り順調に回復へと向かっている完全に元の生活に戻るには時間がかかるだろうが、命の危機は脱したと言っていい。
依頼主であるギルド長からは、改めて丁重な感謝と、約束された成功報酬の一部が届けられ、私の評判は、良くも悪くも、さらに確固たるものになった。
そんなある日、私の部屋を思いがけない人物が訪ねてきた。——ネイルだ。施療団の理想主義的な治療師。彼が私に直接会いに来るのは、例の感染症騒ぎの時に協力要請しに来て以来だ。
今日の彼は、以前のような切迫した様子ではなく、どこか思い詰めたような、それでいて静かな決意を秘めたような、複雑な表情をしていた。
「……イロハ殿。少し、聞きたいことがある」
彼は、真っ直ぐに私を見て切り出した。
「街で奇妙な噂を耳にしたのだ。『遠方からもたらされた薬が、様々な病に驚くほどの効果を発揮する』と……。腹痛、冷え性、原因不明の倦怠感……まるで万能薬のような言われようだ。君ほどの知識があれば、何か……あるいは、その薬について、心当たりはないだろうか?」
遠方の薬……。心身症の婦人から聞いた話と同じものだろう。ミーナも市場で耳にしたと言っていた。
「……残念ながら。私もそのような噂は耳にしましたが、それがどのような薬で、どこから来たものなのか、全く知りません」
正直に答えた。私の本の知識も、噂だけで該当するものを見つけるのは難しい。
「……そうか。すまない、突然妙なことを聞いて」
ネイルは少しだけ落胆したような表情を見せたが、すぐに気を取り直したように私を見た。
「いや……君に聞いたのは他でもない。君ほどの人なら何か知っているのではないか、と……淡い期待を抱いてしまった」
彼の言葉には、以前のような私への敵意や非難の色は感じられなかった。むしろ、同じ「医療」に関わる者として、何かを共有したいような……そんな響きすらあった。
「私には、私のやり方があるだけです。お役に立てず、申し訳ありません」
私がそう言って会話を打ち切ろうとすると、彼は「いや、こちらこそ時間を取らせた」とだけ言い、少しだけ考え込むような表情で、私の部屋を後にした。
——彼もまた、模索しているのだろうか。施療団の限界と、自分の理想との間で。
それから、さらに数日が過ぎた頃だった。再び、ネイルが私の部屋を訪ねてきたのは。
今度の彼は、以前の迷いは消え、どこか吹っ切れたような、力強い意志を目に宿していた。
「イロハ殿。……急な話で済まないが、私は、このルント市をしばらく離れることにした」
「……それは、また、どうして?」
「先日、君にも話した『遠方の薬』のことだ。私なりに調べてみた。そして、ついに突き止めたのだ。あの薬は、おそらく……はるか東の国々からもたらされた、我々の知らない、独自の医学体系に基づくものではないか、と」
東の国……。
「私は、それを確かめに行こうと思う。この目で、この手で施療団の教えや、祈りだけではない、人々を救うための、新たな知識と技術を求めて……。幸い、私の考えに賛同してくれる仲間も、数人だが、見つけることができた」
彼は、まるで新しい発見をした子供のように、少しだけ興奮した様子で語った。
「君にこれを伝えに来たのは……他意はない。ただ、君もまた、この街で、我々とは違うやり方で医療と向き合っている。だから……知らせておくべきだと思っただけだ。我々が戻る頃には、この街の医療も、少しは変わっているのかもしれないな」
彼はそう言うと、少しだけ寂しそうな、しかし晴れやかな笑顔を見せた。
「では、達者で。イロハ殿」
彼はそれだけ言うと、今度こそ、迷いのない足取りで去っていった。
東の国へ……か。彼もまた、自分自身のやり方で、「どんな病も治す力」を求めようとしているようだ。
彼の選択が正しいのかは分からない。だが、その行動力と決意は、認めざるを得なかった。そして、彼がいなくなることで、このルント市の医療——特に施療団の内部——は、また新たな局面を迎えることになるのだろう。
私には、関係のないことだ。そう思いつつも、心のどこかで、彼の旅路の先に何があるのか、わずかながら興味を惹かれている自分に気づいていた。




