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第55話 鋼の知識

 若者の顔に麻酔マスクを当て、その呼吸がゆっくりと深く規則的になるのを確認する。

 脈拍も安定している。よし……。手術野となる腹部を、用意させた熱湯と清潔な布、そして消毒薬で入念に清拭していく。


 天井近くで柔らかな光を放つ無影灯が、術野を白く影なく照らし出す。その光の下で、金属製の器具——メス、鉗子、鑷子せっし、そして縫合用の針と糸——が、清潔な布の上に整然と並べられている。

 ひんやりとした金属の感触が清潔な手袋越しに伝わる。そして、備えとして生成しておいた、適合血液の入った袋も、すぐそばに準備してある。


 全ての準備は整った。あとは、実行するだけだ。


 深く息を吸い込み、そして、吐き出す。頭の中には、「基本開腹術および縫合技術」の知識が、驚くほど鮮明に展開されている。だが、知識と実践は違う。この世界で、この限られた環境で、少ない経験の中、本当にやり遂げられるのか……? わずかな不安が胸をよぎるが、すぐに意志の力でそれを捩じ伏せる。やるしかないのだ。


 メスを、握る。その重さと冷たさが、覚悟を決めさせる。


 狙いを定め皮膚に刃を当てる。一定の力で、迷いなく、必要な長さだけ、腹壁を切開していく。

 じわりと血が滲むが想定の範囲内だ。本で学んだ通りの手順で、小さな血管を鉗子で掴み止血していく。

 脂肪層、筋膜、そして腹膜……。一層一層、慎重に、しかし迅速に切開を進め、ついに腹腔へと到達した。


——酷い。


 開腹した瞬間、流れ込んできた血液の量に思わず息を呑んだ。腹腔内は大量の血液で満たされ、臓器の一部は損傷し変色している。落下した木材の衝撃が、内部で深刻なダメージを与えていたのだ。やはり、内臓損傷からの持続的な出血と腹膜炎……私の診断は間違っていなかった。

 原因箇所は……おそらく、脾臓か。あるいは腸管膜の血管か。出血源を特定しなければ。


 私は吸引器で溜まった血液を吸い出しながら慎重に腹腔内を探索する。無影灯の光が、通常なら見えないはずの臓器を克明に照らし出す。あった……!

 脾臓の下部が大きく裂けている。そこから今もなお、じわじわと出血が続いていた。他の臓器にも損傷がないか素早く確認するが、幸い、大きな問題はここだけのようだ。


 脾臓摘出……いや、損傷部位が限定的なら、部分切除と縫合で温存できるかもしれない。

 私は脳内の知識と目の前の状況を瞬時に照らし合わせ後者を選択した。損傷部を特定し周囲の血管を丁寧に処理していく。

 鉗子で血管を掴み糸で縛る。出血が止まったのを確認し、損傷した脾臓の組織を切除。そして、残った部分を特殊な縫合技術で丁寧に縫い合わせていく。一針、一針……。ミリ単位の精度が要求される作業だ。額から汗が流れ落ちる。集中力が、極限まで高まっていた。


 縫合を終え、腹腔内を生理食塩水で洗浄し、再度出血がないか、他の損傷がないかを最終確認する。よし……大丈夫そうだ。

 問題は閉腹だ。これも、知識通り、腹膜、筋膜、皮下組織、皮膚と、一層ずつ丁寧に縫合していく必要がある。特に腹膜と筋膜の縫合は術後の回復を左右する重要な工程だ。私は、新たに生成した縫合針と糸を使い、学んだ通りの手技で、着実に腹壁を閉じていく。


 最後の皮膚縫合を終え、創部を清潔な布で覆った時には窓の外が白み始めていた。どれだけの時間が経ったのか。全身は疲労で鉛のように重いが、頭は妙に冴え渡っている。

 麻酔の効果を確認し、ゆっくりと覚醒を促す。若者の呼吸は、まだ浅いが安定している。脈拍も、術前よりは力強い。


——終わった。


 

 私は、ベッドサイドに立ち、若者のバイタルを確認しながら、静かに息をついた。

 彼の命を繋ぎ止めることができたはずだ。だが、本当の戦いはこれからだ。術後の感染、合併症……。乗り越えるべき壁は、まだいくつもある。


 部屋の外で待つ家族に、手術が無事に終わったこと、そして今後の経過観察の重要性を伝えなければならない。私は、疲労困憊の身体に鞭打ち、部屋の扉へと向かった。



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