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第54話 執刀への覚悟

 精神医学領域の知識を得たことで対応の幅はさらに広がった。それは同時に、より多くの価値(お金)を得る機会が増えることを意味する。

 命脈の書(ルート・オブ・ライフ)の完全解放という目標は、まだ遥か遠くにあるが、外科知識、診断技術、そしていくつかの重要な薬剤知識を手に入れた今、私は以前とは比較にならないほどの力を持っているという自覚があった。

 問題は、その力を振るうに足る、困難な依頼と、それに見合う対価だ。


 情報網を駆使し次なる依頼を探していた。そして、その機会は思ったよりも早く訪れた。ルント市でも大きな力を持つ、木工ギルドの長からの緊急の呼び出しだった。


 ギルド長の屋敷は、石工ギルドとはまた違う、木の温もりと職人の気概が感じられる立派な建物だった。だが、通された部屋の空気は重く悲痛な雰囲気に満ちている。


 ギルド長とその妻が、憔悴しきった顔で私を迎えた。


「……お待ちしておりました、イロハ殿。どうか、息子を……!」


 彼らの一人息子(年は十五、六歳くらい)が、数日前、工房での事故——高所から落下した木材の下敷きになった——で、腹部を強く打ち、それ以来、状態が悪化の一途を辿っているというのだ。


「施療院にも、腕利きの薬師にも診てもらった。だが、『打撲だ、安静にするしかない』の一点張りで……。しかし、息子の腹は日に日に膨れ上がり、顔色も悪く、もう意識も朦朧としているのです!」


 すぐに息子の元へ通された。寝台に横たわる彼は若者らしい血色はなく、土気色の顔で浅く速い呼吸を繰り返している。

 腹部は異常に膨満し、触れるまでもなく硬く張っているのが分かった。脈は弱く速い。冷や汗も酷い。——これは、腹腔内出血、あるいは消化管の損傷による腹膜炎の可能性が極めて高い。打撲だけで済む状態ではない。


 両親に、改めて厳しい表情で告げた。


「……状況は、極めて深刻です。お腹の中で大量の出血が起きているか、あるいは腸などが損傷している可能性が高い。このままでは、もって数時間……」

「そ、そんな……!」

「ですが、一つだけ……方法があるかもしれません。それは、お腹を直接開けて、中の状態を確認し、原因となっている箇所を処置する——外科手術です」


 「外科手術」という言葉に、ギルド長夫妻は顔を見合わせた。恐怖と、理解を超えたものへの戸惑いが、その目に浮かんでいる。


「腹を……開ける?」

「はい。非常に危険な処置です。成功の保証はありません。ですが、このまま何もしなければ、息子さんは……。私には、それを可能にする知識と、特殊な方法があります」


 私は、彼らの目を真っ直ぐに見据えた。これが、私の持つ「力」であり、同時に、彼らに提示する「選択肢」だ。そして、その選択には、相応の覚悟と対価が必要となる。


「……対価は、いくらだ?」


 ギルド長が、震える声で尋ねた。


「今回の治療には、私の持つ知識の粋を集め、さらに極めて高価な器具と薬を使用します。成功の保証がないことも含め……対価として、大白金貨一枚(価値百万)を着手金として、お願いできますでしょうか」


 百万——。それは、私が外科知識を得るために支払ったのと同額だ。手術に必要な「使用」コストを考えても法外な要求であることは間違いない。

 だが、私は敢えてこの額を提示した。彼の覚悟を確かめるために。そして、私の次なる目標のために。


 ギルド長は、しばらくの間、微動だにしなかった。ただ、ベッドで苦しむ息子の顔と、私の顔を、交互に見つめている。やがて、彼は、まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、しかし力強く言った。


「……わかった。支払おう。大白金貨一枚……必ず用意する。だから……だから、息子を……頼む……!」


 契約は成立した。彼はすぐに人を呼び金策に走らせる。私は、その間に手術の準備を始めた。まずは場所だ。この部屋は清潔とは言えない。屋敷の中で、最も清潔で明るく、広い部屋を用意してもらうよう指示する。そして、大量の熱湯と清潔な布、可能な限りの光源の用意も。


 数時間後。準備が整った部屋で、私は一人、精神を集中させていた。ダリウス氏から受け取った大白金貨が重く懐にある。

 命脈の書(ルート・オブ・ライフ)にアクセスする。


 「——滅菌済 基本手術器具セット、使用!」(コスト十万)

 「——麻酔薬(吸入式・簡易)、使用!」(コスト八万)

 「——手術用無影灯、使用!」(コスト三万)

 「——緊急血液生成(適合)、使用!」(コスト十万)


 頭の中でコストが引かれる感覚。そして、目の前の清潔な布の上に、順番に、金属製のメスや鉗子、縫合針と糸のセットが。吸入マスクと薬品の入った小瓶が。そして、天井付近に、柔らかな、しかし強い影のできない光を放つ球体が、そして、輸血に用いる血液の入った袋と管が、ふわりと実体化した。


 生成された器具を手に取り、その冷たい感触を確かめる。そして、麻酔マスクを手に、ベッドで浅い呼吸を続ける若者の元へ。傍らでは、ギルド長夫妻が、固唾をのんで見守っている。


「……始めます」


 私は短く告げ、麻酔マスクを彼の口元に当てる。ゆっくりと麻酔薬が流れ込み、彼の身体から力が抜けていくのを慎重に確認する。


 そして——無影灯の明るい光の下で、私は滅菌されたメスを、握りしめた。



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