第52話 新たな噂
聖ルカ施療団の内部で燻る火種を認識してからも、私の基本的な日常は変わらなかった。
高額な対価と引き換えに、他の誰もが匙を投げた難病奇病の依頼を引き受け、命脈の書の知識と力、そして時には外科手術の「使用」スキルを駆使して治療にあたる。
失敗のリスクは常にあったが、成功率は依然として高く、私の元には莫大な価値(お金)が集まり続けていた。
その過程で、私はさらにいくつかの重要な「知識習得」を達成していた。例えば、ゴードン氏の治療経験から重要性を痛感した、より高度な「神経系疾患の診断と治療(基礎)」や、外科手術後の回復を早めるための「創傷治癒促進薬合成法」などだ。
これらによって、私が対応できる依頼の幅はさらに広がり、結果として収入も安定してきた。とはいえ、目標とする「生成解放」のコストを考えれば、まだまだ道半ばであることに変わりはない。
そんなある日、私は少し風変わりな依頼を受けることになった。
依頼主は、裕福な毛織物商の夫人。彼女の悩みは、身体のどこにも明確な異常が見つからないにも関わらず、長年に渡り、原因不明の倦怠感、頭痛、そして時折襲ってくる呼吸困難感に苦しめられている、というものだった。
施療院では「気のせい」「信仰が足りない」と言われ、薬師の薬も全く効果がないらしい。
私は、彼女の話を注意深く聞き診察を行った。確かに、身体的な所見は驚くほど少ない。だが、彼女の語る症状の経緯や、生活環境、精神的なストレスなどを総合的に判断すると……これは、いわゆる「心身症」に近いものではないか、と推測された。
しかし、診察を進める中で、彼女がぽつりと漏らした言葉が、私の注意を引いた。
「……そういえば、少し前に、遠方から来た行商人から買った薬が、少しだけ効いたような気がするのよ。気休めかもしれないけれど」
「遠方の薬、ですか?」
「ええ。『どんな病にも効く』なんて触れ込みだったけど……。珍しい香りのする、茶色い丸薬でね。それを飲んでいる間は、少しだけ身体が軽くなったような……。でも、もう手に入らなくて」
彼女はさらに、その薬は腹痛や冷え性にも効いた、と噂で聞いたことがある、と付け加えた。
遠方の、万能薬のような丸薬……? 気になる。この世界には、私の知らない、あるいは本にすら載っていないような、独自の薬や治療法が存在するのかもしれない。
後日、私は薬の補充のためにミーナの店を訪れた際、その薬の噂について尋ねてみた。
「ミーナさん、最近、街で『遠くの街から来た、色々な病気に効く薬』なんていう噂、聞いたことありますか?」
「え? ああ、それなら私も聞いたことあるよ、師匠!」
ミーナはすぐに頷いた。
「市場のお婆さんたちが話してたんだ。『腹痛にも冷え性にも効く不思議な丸薬がある』って。でも、どこの誰が売ってるのか、誰も知らないみたいで……」
やはり、そういう噂があるのか。ますます興味が湧いてくる。それは一体、どんな薬なのだろうか。
「それよりも師匠、聞いてよ!」
ミーナが、突然声を弾ませた。
「この前ね、また施療団の人が来たんだ。今度もネイル様だったんだけど……また、施療団に入らないかって誘われて」
「……それで、あなたは何と?」
私が尋ねると、ミーナは悪戯っぽく笑って、胸を張った。
「言ってやったんだ! 『ネイル様のお気持ちは嬉しいですが、人を頼るばかりではなく、ご自分たちで、今、何ができるのかを考えて道を切り拓く方が、人々のためになるのではないでしょうか? 私には、そう教えてくださった師匠がおりますので』って!」
「……!」
思わず目を見開いた。彼女が、あのネイルに対して、そんな言葉を……? 私が以前、彼女にそれとなく伝えた言葉尻を捉えて、自分なりに解釈し、反論したというのか。
「そ、そう……ですか。ネイルさんは、何と?」
「え? うーん……すごく、すごく難しい顔をして、『君の言う通りかもしれない……』って、小さな声で言って、帰っていったよ?」
ミーナは、けろりとした顔で言う。彼女は、自分がどれだけ大胆なことを言ったのか、そしてそれが施療団の中でどのような波紋を呼ぶ可能性があるのか、おそらく理解していないのだろう。
その真っ直ぐさと、私への信頼、そして確かに見られる思考の成長に、私は嬉しさと、それ以上の言いようのない感慨を覚えていた。この子は、私が思っている以上に、強く、聡明なのかもしれない。
「……よく言いましたね、ミーナさん。ですが、あまり彼らを刺激しないように。用心は怠らないでください」
「うん、わかってる!」
ミーナの成長は嬉しい。だが、同時に、彼女が施療団の内部対立に、より深く巻き込まれる危険性も高まっている。そして、あの「遠方の薬」の噂……。私の知らないところで、世界は動いている。
立ち止まってはいられない。新たに得た資金を元手に、次に習得すべき知識——あるいは、解放すべき力——について、思考を巡らせ始めた。




