第49話 一服
目の前で、聖ルカ施療団に所属するという壮年の治療師が、必死の形相で私に助けを求めている。
彼の息子が、施療団内部で広がっていた感染症に罹り、危険な状態にある、と。組織の体面のために公に私を頼れず、しかし父親として息子を見捨てることもできず、密かに私の元を訪れた——。
彼の言葉には、嘘や欺瞞の色は感じられなかった。そこにあるのは、ただ純粋な、息子を救いたいという親の想いだけだ。
あの時の感染症と同じなら、彼の息子が、他の団員たちと同じ病原菌に感染しているのなら、あの薬は有効なはずだ。ミーナに在庫として渡せるように「使用」によって作ったストックがいくつかある。
そして、これは絶好の機会でもある。施療団の内部に恩を売り、情報を得るための。あるいは、高額な対価を得るための……。
だが——私は、すぐにはその申し出を受け入れなかった。
施療団員との個人的な関与は避けたい。彼らが私をどう見ているのか、今回の依頼が組織としてのものなのか、それとも彼個人の暴走なのかも分からない。下手に深入りすれば、ミーナや、私自身の立場が危うくなる可能性もある。
私は無言で立ち上がり、部屋の奥に保管していた薬の箱から、小さなガラス瓶を一つ取り出した。そして、私はそれを、目の前の治療師に無造作に差し出した。
「……?」
彼は、戸惑った顔で私と小瓶を交互に見る。
「……あなたは、ここには来なかった。いいね?」
私は、彼の目を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。彼は息を呑み、こくりと頷く。
「これは……可能性の一つだ。息子さんに、これを」
「なぜ……」
「もし、これで症状が改善しない、あるいは悪化するようなら……その時は、改めて、この扉を叩くがいい」
私は、彼の疑問には答えず、続けた。
「私は、施療団とは、個人的な関わりは持ちたくない」
言葉に含まれた拒絶と警告の響きを、彼は正確に読み取ったようだった。彼は、差し出された小瓶を、震える手で受け取った。その目には、安堵よりも、困惑と、そしてわずかな恐怖の色が浮かんでいるように見えた。
「……わ、かった。……恩に着る」
彼はそれだけ言うと、足早に私の部屋を辞していった。
一人残された部屋で、私は小さく息をついた。
これで良かったのだろうか。私は、本人の状態を観察せずに薬を渡してしまった。
治療師の言葉は本当のことだったのか……それともあの薬を手に入れたかっただけなのかは分からない。
私は、再び命脈の書を(頭の中で)開き、抗菌薬の詳細な情報を確認した。——彼が、再びここを訪れる可能性に備えて。
◇◇◇
その日の午後、私は先日生成した抗菌薬の残りの在庫——小瓶にして数十本——を一つの箱にまとめ、ミーナの店へと向かった。
大きな赤字だが、ミーナに抗菌薬を託す必要がある。街での感染拡大を防ぐための、私のささやかな予防線だ。
店の暖簾をくぐると、意外なことに、ミーナがカウンターに座って、何か小さな包みを手にそわそわと待っているようだった。
「あ、師匠! やっぱり来てくれたんだね!」
彼女は私を見ると、ぱっと顔を輝かせた。
「どうしたんです、ミーナさん。何か……」
「ううん、なんでもない! それより、師匠、ちょっとこっち来て!」
彼女は私の手を引き、店の奥の小さな作業スペースへと誘う。そこには、小さな木のテーブルの上に、湯気の立つお茶と、二人分のお菓子が用意されていた。それは、市場で最近美味しいと評判の、ドライフルーツが入った焼き菓子だ。
「今日、お客さんからお礼だって、たくさんもらっちゃったんだ! 師匠もそろそろ来るかなって思って、待ってたんだよ。一緒に食べよう?」
彼女は、悪戯っぽく笑って、私に椅子を勧めた。その気遣いが、少しだけくすぐったい。施療団の治療師との、あの張り詰めた空気の後では、なおさらだ。
私は彼女の向かいに腰を下ろし、差し出されたお茶を一口いただく。温かさが、じんわりと身体に染みた。
「これは、お薬の追加分です。渡しておきますね」
「うん、 いつもの感冒薬と同じ値段で、ちゃんと帳面にもつけておくから!」
彼女は、慣れた手つきで箱を受け取り、棚の奥へと慎重にしまい込んだ。そして、再び私の前に座ると、焼き菓子を一つ、私に勧めてくれた。
「師匠も食べてみて! すごく美味しいんだよ」
「……いただきます」
それからしばらく、私たちは他愛のない話をしながら、お茶とお菓子を楽しんだ。
ミーナが話すのは、店に来たお客さんのこと、新しく覚えた薬草の組み合わせのこと、市場で見かけた面白いもののこと……。そんな、日々のささやかな出来事。私が失ってしまった穏やかな日常が、そこにはあった。
彼女の前では、私も「悪徳医者」の仮面を少しだけ外し、ただの「イロハ」として、年下の、しかし懸命な弟子と話をする。それは、今の私にとって、得難い、束の間の休息だったのかもしれない。
だが、休息は長くは続かない。お茶を飲み干すと、私は立ち上がった。
「ミーナさん、長居しました。私はこれで」
「うん! ありがとう、師匠! またいつでも来てね!」
店の入口まで、彼女は笑顔で見送ってくれた。
外に出ると、空は高く、雲がゆっくりと流れていた。穏やかな昼下がり。だが、私の心は、既に次へと向かっていた。束の間の温もりを背に、私は再び、冷徹な現実へと歩き出した。




