第46話 死者の報せ
ネイルが苦悩の表情で立ち去った後、私はすぐに行動を開始した。施療団が私の提案を受け入れるか否かに関わらず、あの感染症——おそらくは強毒性のレンサ球菌かそれに類するもの——が街に蔓延する前に、打てる手は打っておくべきだ。そして、もし施療団が依頼してきた場合に、即座に対応できる準備も必要だった。
私は自分の部屋に籠り、命脈の書に意識を集中させた。
先日「知識習得」した「狭域・中域抗菌薬」の中から、今回の症状に最も有効と思われる薬——カビ由来の、グラム陽性菌に強い効果を示すタイプ——を選択する。
そして、その薬の「使用」を繰り返した。「知識習得」によって「使用」コストは一回あたり五千(銀貨五枚相当)まで下がっているとはいえ、決して安くはない。だが、躊躇はなかった。来るべき時に備えて、その抗菌薬を次々と生成していく。
小瓶にして、およそ百個分。これだけの量があれば、施療団内部の初期対応、あるいは……万が一、彼らが私の提案を拒否した場合の「次善策」にも使えるはずだ。
——もし、施療団がプライドを優先し、私の治療を拒否するなら。その時は、この薬をミーナ経由で、街で苦しむ人々に届けるまでだ。もちろん、それは大きなリスクを伴う。施療団との完全な敵対、そしてミーナ自身への危険……。だが、最低限の良心が、それを選択肢として考えさせていた。
高額な対価を要求する一方で、手の届く範囲での救済も模索する。それが、今の私の歪んだ天秤なのかもしれない。価値にして五十万(大金貨五枚)近くを消費し、薬の準備を終えた頃には、数日という時間が経過していた。
そして、その日はやってきた。再び、私の部屋の扉が叩かれる。そこに立っていたのは、ネイルだった。しかし、彼の様子は数日前とは明らかに違っていた。
顔は熱に浮かされ赤く息も荒い。そして、時折、苦しげな咳を漏らしている。——彼自身も、感染したのだ。
「……イロハ殿」
彼は、壁に手をつき、かろうじて立っているような状態だった。
「……施療院の、老師様が……昨夜、亡くなられた」
老師——おそらく、先日一緒に来た、あの高位の神官のことだろう。ついに、死者が出たのだ。
「そして……施療団は、君の提案を受け入れることを決定した。……これが、約束の対価だ」
彼は、震える手で、一つの重々しい袋を差し出した。中には、間違いなく大白金貨が二枚入っていた。価値二百万。施療団の、そしておそらくは多くの団員の命運がかかった、あまりにも重い対価。
私は、その袋を静かに受け取った。
「……分かりました。治療を引き受けましょう」
薬の入った箱を彼に手渡した。
「これが、今回の感染症に有効な薬です。これは特殊な製法のため、一回の投与で十分な効果が持続します。 まずは、症状が出ている者全員に、これを一度だけ正確に投与してください。効果は数日で現れるはずですが、経過観察は重要です。もし、高熱が続く、あるいは別の症状が出るようなら、すぐに知らせてください」
副作用の可能性も含めて冷静に、しかし詳細に指示を与えた。
「使用」で出した薬は、体内にとどまり数日間の効果を発揮する。そのことから、経過観察が何より大事だ。十分な水と共に内服し、安静にすることを伝えた。
「この薬で、ほとんどの場合は改善するはずです。ですが、重症化している者や、効果が見られない場合は、すぐに知らせてください。別の対応が必要になるかもしれません」
「……わかった。感謝……する」
ネイルは、ふらつきながらも、薬の箱をしっかりと抱え、深く頭を下げた。
「それから、ネイルさん」
私は、立ち去ろうとする彼に、付け加えるように言った。
「あなたのその咳も、気になりますね。……ミーナさんの店——南門近くの薬草店で、感染予防のための石鹸やマスクを扱い始めたと聞きました。あなたも、そして施療団の皆さんも、試してみると良いかもしれません。手洗いうがい、そして咳をする際のマスク着用は、感染拡大を防ぐ基本ですから」
私の言葉に、ネイルは少し驚いたような顔をしたが、すぐに力なく頷き、施療院へと戻っていった。
二百万という莫大な対価。そして、施療団の命運を左右する薬。事態は、新たな段階へと動き出した。私は、手に入れた価値と、これから始まるであろう治療の難しさに、改めて身を引き締める思いだった。




