第32話 師匠
頭の中に刻み込まれた新たな知識——外科手術の理論と手順。それは確かに大きな力だ。だが、すぐに気づかされる。この知識を現実に活かすためには、あまりにも多くのものが足りていない、という事実に。
命脈の書のページを開き、『外科』および『医療器具』『麻酔』のカテゴリーを注意深く確認する。
知識だけあっても、それを実行する「手」——すなわち、適切な器具がなければ意味がないのだ。そして、痛みを取り除く麻酔も。
やはり、というべきか、関連する項目は無数に存在し、そしてそのコストは軒並み高額だった。
【滅菌済 基本手術器具セット(単回使用)】
┣ 使用: 100,000[効果:メス、鉗子、鑷子、縫合針・糸など基本的な手術器具一式を生成]
┣ 知識習得: (非表示)
┗ 生成解放: (非表示)
【麻酔薬(吸入式・簡易)】
┣ 使用: 80,000 [効果:短時間の手術に耐えうる基本的な吸入麻酔薬と器具を生成]
┣ 知識習得: (非表示)
┗ 生成解放: (非表示)
【手術用無影灯(魔力光源)】
┣ 使用: 30,000 [効果:術野を明るく照らす無影灯を一時的に生成]
┣ 知識習得:(非表示)
┗ 生成解放:(非表示)
「使用」ですら、このコスト……。器具と麻酔だけで、最低でも価値十八万(大金貨一枚と金貨八枚)が必要になる。
今の私の所持価値は約五十万強。不可能ではないが一度使えば残りは三十万程度。これでは、他の高額スキルの「知識習得」はおろか、予期せぬ事態に対応するための「使用」コストすら賄えなくなるかもしれない。
外科知識は手に入れたが、それを安全かつ有効に「実行」できるようになるには、まだ大きな壁がある。最低でも、この緊急用の器具と麻酔の「使用」コスト分は、常に確保しておけるだけの価値を稼ぎ続けなければならない。
そんなことを考えつつ、私は数日ぶりにミーナの薬草店を訪れた。
彼女に頼んでいた、いくつかの薬草を受け取り、そしてこちらからは新しく調合したキズハ湿布と感冒薬の包みを渡すためだ。
「師匠! 来てくれたんだね!」
店の奥からミーナが明るい声を弾ませて駆け寄ってきた。その呼び方に、私は内心で小さく息をつく。今、店には他に客はいないが、いつ誰が入ってくるか分からない。
「ミーナさん。少し、大事な話があります」
店の隅へ彼女を呼び寄せ、声を潜めて伝える。
「あなたが私を『師匠』と呼んでくれるのは、構いません。ですが……それは、こうして二人きりでいる時だけにしてください。店の外や、他に誰かいる時には、決して。……私のことは、『イロハさん』と呼ぶか、あるいは……」
「……わかってる。大丈夫だよ、イロハさん」
私の言葉を遮るようにミーナは真剣な目で頷いた。
「師匠……ううん、イロハさんが、色々大変なのは、なんとなく分かるから。私、ちゃんと気をつける。絶対に、迷惑はかけないよ」
彼女の真っ直ぐな瞳に少しだけ驚く。彼女は私が思うよりもずっと状況を理解しているのかもしれない。
「……ありがとう、ミーナさん」
「ううん。それより、これ! 前に教えてもらった火傷の薬、すごく効くって評判なんだよ!」
彼女は小さな壺に入った軟膏を見せてくれる。以前、私が基本的な薬草の組み合わせと製法を教えたものだ。
彼女なりに工夫を重ねているらしい。その報告を聞いていると、張り詰めていた心が、わずかに和らぐのを感じた。
ミーナに持ってきた薬の包みを渡し、代わりに彼女が集めてくれた薬草と、そして約束の対価(原価にわずかな手間賃を上乗せした程度)を受け取った。
「いつもありがとう、師匠……じゃなくて、イロハさん!」
別れ際、彼女は少し照れたように笑った。その笑顔に送られ、私は店を出た。
ほんのわずかな価値にしかならない、ささやかな収入。だが、これも必要なことだ。一方で、大金貨や大白金貨を動かす、もう一つの私の「仕事」。その両方を続けなければ、私の目的は達成できない。
次に目指すべきは、外科手術を可能にするための価値——最低でも十八万。そして、その先の、数百万、数千万というコスト……。
気が遠くなるような道のりだ。だが、進むしかない。
私は、新たに得た外科知識と、それを実行するために必要な価値のことを考えながら、次の依頼を探すために、再びルントの街の中へと歩を進めた。




