第31話 秘密の約束
「基本開腹術および縫合技術」——その知識が、私の頭の中に完全に刻み込まれた。
これで、理論上は多くのこれまで手が出せなかった外科的疾患に対応できるはずだ。もちろん、実際に手術を行うには相応の道具と経験が必要になる。だが、知識があるのとないのとでは天と地ほどの差がある。私は、自分の力がまた一段階上がったことを、静かに実感していた。
手元に残った価値は、約五十万強(大金貨五枚とα)。これだけあれば当面の活動資金には困らないだろう。次に目指すべきは、外科手術に必要な道具の「使用」解放か、あるいは別の重要スキルの「知識習得」か……。
そんなことを考えながら数日ぶりにミーナの薬草店を訪れていた。目的は、先日考えたこと——私の活動ではカバーできない、基本的な医療へのアクセス——について、彼女に具体的な提案をするためだ。
店に入ると、ミーナはちょうど薬草を棚に整理しているところだった。私に気づくと、ぱっと笑顔になる。
「あ、師匠! いらっしゃい!」
彼女はもう、すっかり私を「師匠」と呼ぶことに慣れていた。
「こんにちは、ミーナさん。少し、お話があります」
「なあに?」
私が改まった口調で言うと彼女は不思議そうな顔で首を傾げた。私は、店の奥、人目につかない場所へ彼女を促す。
「ミーナさん、あなたはこの店で、多くの人の助けになっている」
「え? そ、そんな……私は、師匠に教わったことをやってるだけで……」
「いいえ。あなたのその姿勢が、人々を安心させているのです。ですが……扱える薬草や知識には、まだ限りがあるでしょう?」
「……うん。もっと色々な症状に対応できたら、っていつも思うけど……」
ミーナが少し俯く。その真摯さが私の決意を後押しした。そして、持参した包み——ここ数日で、私が自ら調合した薬が入っている——を彼女の前に置いた。
「これは?」
「私が作ったものです。一つは、以前教えたキズハ湿布を、より効果が高まるように改良したもの。そしてもう一つは……この街で多くの人が悩んでいる、風邪の症状を和らげるための飲み薬です」
「ええっ!? 風邪薬まで!?」
ミーナが驚きの声を上げる。
「これを、あなたに使ってほしいのです」
「え? で、でも、こんな貴重なものを……それに、作り方だって……」
「作り方は、まだ教えられません。ですが、この薬自体は、今後も私が定期的に用意して、あなたに……そうですね、材料費にも満たないような、ごく僅かな対価で提供します」
「……!」
ミーナは息を呑んだ。私が何を言おうとしているのか察し始めたのかもしれない。私は続けた。
「あなたは、この薬を使って、軽い怪我や風邪で困っている人々を助けてあげてください。施療院では十分な治療を受けられず、かといって高価な薬師に頼ることもできない……そんな人たちのために」
「……師匠……」
「ただし、条件があります」
彼女の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「第一に、この薬が私から提供されていることは絶対に秘密にすること。 あなたが独自に調合したか、あるいは架空のルートから仕入れた、ということにしてください」
「う、うん……」
「第二に、あなたが対応するのは、あくまで『簡単な症状』に限ること。少しでも手に負えない、重い症状だと判断した場合は、決して無理をせず、『私にはこれ以上は分からない』と正直に伝えること。そして、その患者さんのことを、後で私だけに、内密に相談してください。決して、私の名前を出して『紹介』するようなことはしないでください。 いいですね?」
私の強い口調に、ミーナは少し怯んだが、すぐに真剣な表情で、こくりと頷いた。
「……わかった。師匠の言う通りにする。絶対に秘密は守るし、無理な治療はしない。それで……それで、本当にたくさんの人を助けられるなら……!」
「ええ。あなたのその手で、助けてあげてください」
これが、私の考えた「セーフティライン」だ。私が高額な対価でしか救えない命がある一方で、ミーナが私の知識を使って日々の小さな苦しみを掬い上げる。
表と裏。矛盾しているかもしれないが、今の私には、これしか思いつかなかった。
「ありがとう、師匠!」
ミーナは改めて深々と頭を下げた。その瞳には、新たな決意と、私への揺るぎない信頼が宿っているように見えた。
彼女に、用意した薬の正確な使い方と保管方法を丁寧に教え、そして最初の供給分を託した。これから、ミーナの店は変わるだろう。




