第30話 次なる扉
季節が一つ巡るほどの時が流れた。ルント市には、暑くも寒くもない穏やかな日々が訪れていた。
私の生活も、表面的には安定していたと言える。高額な対価と引き換えに難病の相談に乗る「異端の治療師」としての活動は依然として続けている。
その合間にミーナの店を訪れ、彼女に薬草の知識や扱い方を教えることも、すっかり習慣になっていた。
その日、私は数ヶ月ぶりに宝石商ダリウス氏の屋敷の門をくぐった。
最後の経過観察のためだ。以前は重苦しい空気に満ちていた屋敷は、今はどこか明るい雰囲気に包まれているように感じられた。
通されたのは陽光が差し込む明るい居間だった。そこには、ダリウス氏と妻、そして——以前はベッドに伏せっていたはずの、彼らの一人娘が、椅子に座って穏やかに微笑んでいた。
「イロハさん!」
少女が、私に気づいて明るい声を上げる。数ヶ月前、蝋のように白く、硬質化しかけていた肌は、今は健康的な色艶を取り戻している。まだ少し細身ではあるが、その瞳には確かな力が宿っていた。
「お久しぶりです、リリアさん。お加減はいかがですか?」
「うん、もうすっかり元気よ! ありがとう、イロハさん!」
彼女は椅子から立ち上がり、軽く駆け寄って私の手を取った。その動きは滑らかで、以前のような硬さや石化の兆候など微塵も感じられない。
改めて診察をさせてもらった。脈拍、呼吸、反射、そして皮膚の状態……。命脈の書から得た知識と、私の持つ診断技術を総動員して確認する。——間違いない。石人化病の兆候は、完全に消失している。あの黒曜石から作った薬が、根本的な治癒をもたらしたのだ。
「……素晴らしい回復ぶりです。もう、心配はいらないでしょう。ただ、非常に稀な病気でしたから、念のため、年に一度くらいは経過を見せていただけると安心です」
私の言葉に、ダリウス夫妻は顔を見合わせ、感極まったように再び涙ぐんだ。
「イロハ殿、今回の件、重ねて礼を言う。それで、これは別件なのだが……」
彼は再び執事を呼び、今度は少し小さめの、しかし上質な革袋を差し出した。
「心ばかりのお礼と今後にお願いする顧問料だと思ってくれ。是非、受け取ってほしい」
中を確認する。そこには大金貨が五枚。彼の申し出は破格と言っていい。だが、ここで断るのは、彼の厚意を無下にするだけでなく、私の目的にも反する。
「……ありがたく、頂戴いたします。ダリウス様。今後とも、微力ながらお力になれれば幸いです」
私は、深々と頭を下げてそれを受け取った。
別れの際、ダリウス氏は改めて言った。
「君は、我々家族の恩人だ。この恩は決して忘れない。君がこの街で活動を続ける上で、何か障害になるようなことがあれば、いつでも私に言ってほしい。宝石商ダリウスの名において、必ず君の力になろう」
それは、単なる感謝の言葉ではなく、この街における強力な後ろ盾を得たことを意味していた。私は、静かに一礼し、屋敷を後にした。
自分の部屋に戻り、受け取ったばかりの大金貨を机の上に置く。以前の蓄えと合わせ、今、私の手元には、価値にして百万を超える資産がある。大白金貨一枚と、さらに金貨数枚……。数ヶ月前、銅貨一枚を握りしめていた自分が嘘のようだ。
命脈の書を開いた。目指す項目は決まっている。『外科手術』——『基本開腹術および縫合技術』。その「知識習得」コストは、百万。
今の私なら、手が届く。あの時、救えなかった命。適切な診断を下せても、それを実行する「技術」がなかった。だが、それも、もう過去の話になる。
頭にはミーナの笑顔も浮かんでいた。私が教えた簡単な知識で彼女は多くの人々を助け感謝されている。
私が高額な対価でなければ救えない命がある一方で、彼女のように、日々の小さな苦しみに寄り添う存在もまた、この街には必要なのだ。
矛盾しているかもしれない。だが、今は、両方が必要だと感じていた。私が「頂」を目指すためには、足元の「裾野」もまた、無視することはできないのかもしれない。
だが、今はまず、目の前の扉を開けることだ。本に意識を集中させ、決意を込めて命じた。
「——基本開腹術および縫合技術、知識習得!」
莫大な価値が本に吸い上げられる。そして、外科医として最低限必要となるであろう、膨大かつ精密な知識と技術が脳へと流れ込んでくる。メスの握り方、切開と止血、臓器の扱い、そして何層にも及ぶ精密な縫合……。
全てがインストールされた時、私は確かな手応えを感じていた。これでまた一つ大きな力を手に入れたのだ。




