第3話 ルントの街角
部屋に一人残され、しばし呆然と命脈の書の開かれたページを見つめていた。
基本医療知識、習得済。そして、金貨がこの本に吸い込まれた。信じがたい現象と、あまりにも非情な現実。
……いや、今は感傷に浸っている場合じゃない。この部屋がおそらく、今の私の全財産であり、唯一の安全地帯だ。まずは状況を確認しなければ。
改めて室内を見渡す。粗末な寝台、小さな机と椅子。壁際には麻の服と、空になりかけた革の水筒。他に持ち物は……ない。窓の外の光は、まだ昼間のように見える。
意を決して部屋を出る。扉を開けると、昨日までの世界とは全く違う光景が広がっていた。
石畳の道。両側には木材がむき出しになった壁や漆喰のようなもので塗られた家々が並んでいる。
屋根は瓦のようなもので葺かれているが形は不揃いだ。道行く人々の服装も麻や革が主で色合いも地味なものが多い。
土埃っぽい匂い、家畜の匂い、どこかのパン屋から漂う香ばしい香り、あまり衛生的とは言えないような、生活の臭い。
そして様々な混じり合った音が耳の届く。荷馬車の車輪が石畳を叩く音、遠くで響く鐘の音、人々の話し声、店の呼び込みの声。
ふと、通りの向こうに見えた標識らしきものに書かれている文字が目に入った。『ルント市 西地区』。街の名前……ルントというのか。
「そういえば……」
文字も声も、ごく自然に理解できている。まさかあの本のおかげなのか……?
そして……どこへ行っていいのか……それどころか何をしていいのかも分からない。ただ、この街を知らなければ、生き延びることもできないということだけは分かる。
壁際に沿って警戒しながら歩き出す。時折向けられる訝しむような視線が肌に痛い。場違いなのは、自分が一番よく分かっている。
しばらく行くと、道が広がり、多くの人で賑わう広場に出た。
市場が開かれているようで、露店には色とりどりの野菜、見たこともない果物、干し肉の塊、年代物の武具やガラクタのような道具まで、雑多な品物が並べられている。
その中にパンを売る店を見つけた。一番安そうな黒くて硬そうなパンを客が指さしている。店主が何かを喋って手のひらを差し出すと、客が小さな茶色い硬貨を数枚渡しているのが見えた。
あのパンが銅貨数枚……。今の私には、その銅貨一枚すら持っていない。
ぐう、と腹が締め付けられるように鳴った。喉も渇いている。水筒の水は、もうほとんどない。
無一文。この現実が、足元から這い上がってくるような不安感を煽る。お金を稼ぐには仕事……自分にもできる仕事……。
何の保証もない異邦人に、誰が仕事をくれるだろう。多くのバイトをやってきた。そうだ! 引越しのバイトで培った単純な力仕事ならいけるんじゃないか……? 市場を見渡せば、重そうな荷物を運んでいる人たちがいる。ああいう仕事なら頼めば融通してくれるのか……それとも履歴書とかが必要なのか? どうやって頼めばいい?
「ふぅ」とため息をついて見上げると、広場の向こうに聳える、ひときわ大きな石造りの建物が目に入った。
高い塔、壁面の装飾……教会だろうか。入口には、天秤のような、あるいは薬草を模したような、治療院を思わせる独特のマークと、見慣れない紋章の旗が掲げられていた。
そんなことより、今、考えるのは、施しを待つのではなく、自分の力で、今日を生き抜くための何かを掴まなければならない。
単純な労働でもいい。銅貨一枚でも稼ぎたい。それが、この世界での第一歩になるはずだ。