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第29話 薬草店の娘

 ダリウス氏の娘の一件以来、私の生活は表面的には落ち着きを取り戻していた。

 莫大な対価は、私の活動資金となり精神的にも大きな余裕を与えてくれた。もちろん目標である「基本開腹術および縫合技術」の「知識習得」(コスト百万)にはまだまだ足りないが、以前のような日々の糧にすら困る状況ではなくなった。


 得た資金の一部を使い、自分の身なりや拠点である部屋の最低限の環境を整えた。

 清潔な衣服を数着揃え、薬の調合や保管に必要な最低限の道具(ガラス瓶や、より精密な秤など)を市場で購入する。

 これらは全て、これから本格化させるであろう「高額依頼」への投資であり、信用を得るための必要経費だと割り切った。


 高額依頼の噂は水面下で確実に広がっているようだった。ギルベルト商会やダリウス氏からの紹介か、あるいは別のルートからか、時折、「特別な治療」を求める使者が私の部屋を訪れる。

 冷静に依頼内容を吟味し、本の力で対応可能か、そして相手に十分な支払い能力があるかを見極め、条件に合致する場合のみ、法外な対価と引き換えに治療を引き受けた。そうして得た価値は、着実に蓄積されていった。


 そんな日々の中で、私の足は自然とあの小さな薬草店へと向いていた。職人街の片隅にある、ミーナの店だ。


 最初に訪れたのは、ダリウス氏の娘の治療が一段落し、少しだけ時間ができた時だった。店を覗くと、ミーナは相変わらず一人で店番をしながら、訪れる客に薬草の説明をしていた。その一生懸命な姿は、変わらない。


「イロハさん!」


 私に気づくと、ミーナはぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。


「この前アドバイスしてもらったキズハ湿布、改善したら、前よりずっと治りが早いって喜んでくれるんだ!」

「それは良かった」

「うん! それでね、他にも色々試してみたいんだけど、なかなか上手くいかなくて……。例えば、この咳止めの薬草なんだけど、もっと効果を出す方法とか、知らないかな?」


 彼女は、純粋な探求心と期待を込めた目で私を見る。


 彼女の店で扱うのは、基本的な薬草ばかりだ。

 特別な治療ができるわけではない。だが、その基本的な薬草ですら、正しい知識で扱えば、効果は格段に上がるはずなのだ。

 街には施療院の気休めにもならない薬湯と祈祷、あるいは効果の疑わしい民間療法しかない。そんな中で、ミーナのような存在が、もう少しだけ確かな知識と技術を持てば、私が相手にしない多くの人々にとって、大きな助けになるのではないか……?


 それは、ネイルに突き付けられた理想論とは違う、もっと現実的な、ささやかな救済の形かもしれない。


だが、目の前で熱心に教えを請うミーナの姿を見ていると、以前、抑え込んだはずの感情が、少しだけ顔を覗かせた。教えることは、できる。それによって、私が失うものは、わずかな時間だけだ。

「……いいですよ。基本的な薬草の扱い方や、衛生管理についてなら、私にも教えられることがあります。そのかわり、と言ってはなんですが……」

 私は少し考えて、付け加えた。

「時々、珍しい薬草や鉱石の情報が入ったら、教えてもらえませんか? あるいは、私が手に入れにくい一般的な薬草を、少し分けてもらうとか……」

「えっ、本当!? もちろんいいよ! 私で分かることなら何でも!」

 ミーナは、満面の笑みで頷いた。


 その日から、私は依頼の合間を縫って、ミーナの店へ通うようになった。教えたのは、本当に基本的なことだ。道具の煮沸消毒の方法、薬草を扱う前の手洗い、症状に合わせた薬草の選び方の初歩、そして、キズハ以外にも、いくつかの薬草について、より効果的な使い方。


 私は決して、本の知識を教えることはなかった。あくまで、彼女が今持っている知識と材料で、最大限の効果を引き出すための、実践的なアドバイスに留めた。


 ミーナは、驚くほどの吸収力で、私が教えたことをどんどん自分のものにしていった。そして、私に対して、尊敬と親しみを込めて「師匠」と呼ぶようになったのだ。

「師匠! 今日ね、教えてもらったやり方で咳止めのシロップを作ったら、すごく効くって喜ばれたんだ!」

 そう言ってはにかむ彼女の笑顔は、私の凍てついた心の片隅を、ほんの少しだけ温めるような気がした。


これは、自己満足かもしれない。あるいは、将来のための布石か。自分の本当の目的——本の完全解放——とは、直接関係のない寄り道だ。だが、ミーナと過ごす時間は、高額な対価と引き換えに神経をすり減らす日々のなかで、奇妙な安らぎを与えてくれるものでもあった。

 表の顔(高額治療師)と、裏の顔(ミーナの師匠)。二つの顔を使い分ける、私の新しい日常が、静かに始まっていた。

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