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第27話 兆し

 ダリウス氏の屋敷に仮の居場所が与えられた。

 娘さんの寝室の隣にある、簡素だが清潔な小部屋。昼夜を問わず、何かあればすぐに対応できるように、という配慮だろう。

 もっとも、私自身、そのつもりだった。あの深い紫色の薬液——「石人化病」に対する、今の私の唯一の希望——を投与した以上、その効果をこの目で見届けるまでは、ここを離れる気はなかった。


 最初の丸一日は、息詰まるような緊張感の中で過ぎた。私は、決められた時間に正確に薬を投与し、それ以外の時間は、ほとんどベッドサイドで娘さんの様子を観察し続けた。

 脈拍、呼吸、顔色、そして何より、石のように硬化していくという皮膚の状態。劇的な変化はない。だが、悪化もしていない。昨日まで、刻一刻と進行していたように見えた硬化が、少なくとも今は止まっている……ように見える。それだけでも、わずかな光明だった。


 時折、ダリウス氏や、憔悴しきった彼の妻が部屋を訪れた。

 彼らは、娘の顔を覗き込み、そして私の顔を窺う。その目に宿る不安と期待の入り混じった色に、私は努めて冷静に、観察結果だけを告げた。


「今のところ容態は安定しています。薬が効いているのか進行は止まっているようです。ですが、まだ予断は許しません。引き続き、慎重に経過を見る必要があります」


 私の淡々とした口調に彼らは安堵とも失望ともつかない、複雑な表情を浮かべて頷くしかなかった。


 二日目の午後。ダリウス氏が、数冊の古びた革装の本を抱えて書庫からやってきた。


「イロハ殿、君が探しているような情報かは分からんが……古い交易記録の中に、奇妙な病に関する記述があった。あるいは、薬草に関するものも……」


 彼は、私との約束通り、自身の持つリソースを使って情報を集め続けてくれている。その協力はありがたい。私は礼を言ってそれらを受け取り、娘さんの傍らでページを捲った。

 異国の文字や解読不能な記述も多い。だが、その中に、もしかしたら次の手掛かりが隠されているかもしれない。本の知識と、この世界の知識。それらを組み合わせることでしか活路は開けないのだから。


 三日目の朝。いつものように、夜明けと共に娘さんの状態を確認する。脈、呼吸……安定している。まだ熱っぽさは残るが、昨日よりは少しだけ……引いている。

 そして、硬化していたはずの彼女の指先に、ほんのわずかに、本当にごくわずかだが弾力が戻っているような気がした。


 気のせいかもしれない。希望的観測かもしれない。だが、昨日までとは明らかに違う微細な変化。私は慎重に他の部位も確認していく。首筋、腕……やはり、全体的に、石のような冷たさと硬さが、ほんの少しだけ和らいでいるように感じる。


——効いている。あの薬は、確かに効いている!


 確信に近い手応えに思わず息を呑んだ。根本治療ではないかもしれない。それでも、進行を止め、わずかながらも改善を促しているのだ。


「旦那様、奥様。……回復の兆しが見られます」

「ほ、本当か!?」

「ええ。まだ予断は許しませんが、肌の硬化が少し和らぎ、熱も下がり始めています。薬が効果を発揮しているようです」


 夫人はその場にへたり込み声を上げて泣き始めた。それは、昨日までの絶望の涙ではなく安堵と喜びの涙だった。ダリウス氏も、何度も私の手を握り「ありがとう、ありがとう……!」と繰り返す。その目もまた、赤く潤んでいた。


 部屋を満たす安堵の空気。だが、私はまだ気を抜くわけにはいかなかった。

 治療は、まだ始まったばかりだ。これから、この状態を維持し、さらに改善させていかなくてはならない。そのためには、薬の継続投与と、さらなる観察、そして……本の知識が必要になるだろう。


 それでも目の前に確かな希望の光が見えたことは大きな前進だった。私自身の知識と技術、そしてダリウス氏の協力。それらが合わさって、不可能と思われた壁を、少しだけ動かすことができたのだ。


 成功報酬の大金貨五枚。それが得られれば、私はさらに大きな力を手に入れられる。本の、次のページを開くことができる。

 娘さんの穏やかになった寝顔を見つめながら、私は静かに、しかし強く、決意を新たにしていた。この治療を、必ず成功させる、と。


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