第26話 黒曜石の雫
自分の部屋に戻った私は、息つく間もなく、ダリウス氏が用意してくれた材料を机の上に広げた。
黒く鈍い光を放つ微細な黒曜石の粉末。透き通った瓶に入れられた朝露のように輝く月雫草の液体。その他、いくつかの乾燥した薬草や、精製された塩のようなもの。そして、清潔な水と愛用の石臼と石杵、それから市場で手に入れた、粗末だが未使用の小さな陶器の壺と木匙くらいだ。
命脈の書から得た知識——「黒曜石を用いた特定代謝異常の阻害薬合成法」——は、私の頭の中に、驚くほど鮮明に刻み込まれていた。
だが、それは同時に、この調合がいかに繊細で高度な技術を要求するかを示してもいた。精密な温度管理、材料を投入する正確なタイミングと順序、そして特殊な攪拌方法……。現代の実験室であれば可能だろうが、この部屋で、この道具だけで、果たして……?
不安を振り払い作業に取り掛かった。まずは、黒曜石の粉末を石臼でさらに細かく均一になるまですり潰す。気の遠くなるような作業だ。
次に、それを陶器の壺に移し、本が示す正確な量の清潔な水を加える。温度管理……これが一番の難関だ。本には「人肌よりやや高く、しかし決して沸騰させてはならない」といった、曖昧だが厳しい指示がある。
部屋の隅にある簡素な焜炉に火を入れ、壺を慎重に遠火で温めながら、絶えず木匙でかき混ぜ、指先で温度を確かめる。熱すぎても、冷たすぎても駄目だ。神経を極限まですり減らすような作業が続く。
頃合いを見て、月雫草の露を、一滴、また一滴と、本が示す正確な間隔で加えていく。そのたびに、黒い液体が微かに色を変え、奇妙な匂いを発する。
他の薬草も指定された手順ですり潰し、適切なタイミングで加えていく。攪拌、加熱、冷却……。その工程を、何度も、何度も繰り返す。
時間はどれだけ経ったのか。窓の外はとっくに暗くなり部屋の中は燃えさしの焜炉と、ろうそく一本の頼りない光だけが揺らめいている。
疲労と集中で身体は限界に近かった。だが、壺の中の液体は、徐々に、しかし確実に変化していた。
黒く濁っていた液体は次第に不純物が沈殿し、上澄みは驚くほど澄んで深い紫色の液体へと変わっていったのだ。そして、あの独特の薬草の匂いも消え、代わりに、言葉では表現しがたい、清澄な、わずかに甘い香りが漂い始めていた。
——できた……!
本に示された最終的な色と粘稠度、そして香り。間違いなく、これが「石化進行抑制薬」の完成形だ。
安堵と共に全身の力が抜け落ちそうになるのを必死で堪える。量は、ほんの僅か。小さな匙に一杯分にも満たないだろう。だが、この一滴に、あの少女の未来がかかっている。
完成した薬液を、小さな清潔な小瓶に慎重に移し替えた。そして、夜明けを待たずに、再びダリウス氏の屋敷へと急いだ。
屋敷は、夜だというのに煌々と明かりが灯り異様な緊張感に包まれていた。私を迎えた執事の顔にも、隠しきれない疲労と不安が浮かんでいる。すぐに娘さんの寝室へと通された。
ダリウス氏と妻がベッドのそばで付きっきりで看病していたようだ。その顔には、絶望の色が濃くなっている。
抑制薬の効果が切れかかっているのかもしれない。少女の呼吸は、昨日よりもさらに浅く、弱々しくなっているように見えた。
「薬が……できました」
私の声に、二人がはっと顔を上げる。その目に、一縷の望みが灯った。
「これを、飲ませます。ただし、これは即効性のあるものではありません。身体の内部から、ゆっくりと作用していくはずです。そして……一度では足りません。しばらくの間、一日三回、正確な時間に投与し続ける必要があります」
自作した薬は、「使用」で生成したものとは違う。効果を持続させるには、反復投与が原則だ。そのことを、私は二人に丁寧に説明した。
「わかった。全て、君に任せる」
ダリウス氏は、力強く頷いた。
小瓶からスポイトで正確な量を吸い上げ少女の口元へと運んだ。意識のない彼女の唇をそっと開き、数滴ずつ、ゆっくりと投与していく。
深い紫色の液体が、彼女の身体の中へと消えていくのを、祈るような気持ちで見守った。
——届け。どうか、この薬が、彼女の未来を繋ぐ一滴になってくれ……!
最初の投与を終え、私はダリウス夫妻に今後の投与方法と時間を正確に伝えて経過観察の重要性を念押しした。成功報酬のことは、今は考えられない。ただ、この治療が成功することを、願うだけだ。
この薬は、本当に効くのだろうか? 本の知識は正しかったのか? そして、私のこの選択は……。
一週間という期限は、もはや意味をなさない。本当の戦いは、これから始まるのだ。私は、部屋に残る薬の微かな香りと、少女のか細い寝息を聞きながら、静かにその時を待つことにした。




