第22話 踏み出した一歩
夜明けの薄明かりが部屋に差し込み、机の上の命脈の書を鈍く照らし出す。
私は、寝台の上で身を起こしたまま、その分厚い革表紙を睨みつけていた。昨夜の出来事が、冷たい現実として胸に突き刺さっている。
あの小さな命を救えなかったのは、この本が要求する「価値」を、私が持っていなかったからだ。ただ、それだけ。
後悔も感傷も、もう意味はない。必要なのは行動だ。効率的に、確実に、莫大な価値(お金)を手に入れるための行動。目的のためならば手段は選ばない。そう、腹は括ったはずだ。
まず、必要なのは情報だ。「高額な対価を支払う意思があり、かつ、既存の医療では手の施しようがない難病・奇病に苦む者」——そんな存在を効率的に見つけ出す必要がある。
闇雲に待つのではなく的を絞って探らなければ。部屋を出て向かったのは、商人ギルドの裏手にある、少し込み入った情報——特に裕福な商人たちの内情に詳しいと評判の、顔馴染みの露天商だ。
「何か新しい話は? 特に、裕福な方で、医者も見放すような病に悩んでいる、というような」
銀貨を渡すと、露天商は目を細め、すぐに声を潜めて教えてくれた。
「……それなら、宝石商のダリウスの旦那のところだねぇ。一人娘が、もう何か月も原因不明の病で……体が石みたいになるんだとか。施療院も匙を投げたって話だよ。旦那、娘のこととなると金に糸目はつけねぇ質だから、あるいは……」
宝石商ダリウス。身体が硬化する奇病……。聞いたこともない症状だが、だからこそ本の出番かもしれない。そして、「金に糸目はつけない」……。これ以上ない情報だ。
「……感謝する」
私は短く礼を言うと、その場を後にした。
頭の中では、既に本の関連項目を検索している。『神経変性疾患』『硬化性疾患』……可能性のある項目はいくつかヒットするが、どれも「知識習得」には最低でも大金貨数枚、「生成解放」に至っては天文学的な数値が並んでいた。まずは依頼を取り付け、莫大な対価を得なければ始まらない。
私は一度拠点に戻ると扉の外に掲げた看板の文字を木炭で力強く書き換えた。
『奇病難病、原因不明の疾患、相談に応ず。ただし、治療の対価として【大金貨最低一枚以上】を用意できる方のみ』
これでいい。曖昧さは不要だ。私の覚悟を示すには、これくらいが丁度いい。
そして私は再び外へ出た。今度は、迷わず宝石商ダリウスの屋敷へと向かう。
ルント市でも一際豪華なその屋敷の門は、やはり屈強な門番によって守られていた。
以前ギルベルト商会を訪れた時よりも、私の身なりは多少マシになっているはずだが、それでも門番の視線は厳しい。
だが、今の私には、以前にはなかったものがある。それは、失敗と決意によって裏打ちされた、揺るぎない自信——あるいは、開き直りに近いものかもしれない。
「宝石商ダリウス様にお目通りを願いたい。お嬢様の病について、話がある」
私は、門番の目を真っ直ぐに見据えて言った。以前のような懇願する響きはない。
「……何者だ?」
「治療師、とだけ。ギルベルト商会長にも、先日お世話になった」
商会長の名前を出すと門番の表情がわずかに変わった。あの噂は、やはりこういう場所にも届いているらしい。門番はしばらく私を値踏みしていたが、やがて「……ここで待て」と言い残し、屋敷の中へと消えた。
しばらくして、門番が戻り、無言で門を開けた。
中へ入ると、昨日までの自分とは違う世界の空気が肌を刺す。豪華な調度品、磨き上げられた床……。
通された応接室で待っていたのは、やつれ果て目の下に濃い隈を作ったダリウス氏本人だった。宝石商としての輝きは見る影もない。
「……君が、娘を治せるかもしれないと?」
彼の声はかすれ、すがるような響きを帯びていた。私は、感情を殺して、ゆっくりと口を開いた。
「可能性はあります。ですが、そのためにはまず、お嬢様を診察させていただく必要があります。そして……私の治療には、相応の対価が伴うことも、先にご理解いただきたい」
そうハッキリと伝えた。




