第21話 届かぬ力、砕けた心
男に案内されるまま息を切らして夜のルント市を駆ける。
石畳を蹴る足音が静かな街に虚しく響いた。子供が急に苦しみだした……顔が紫色に……。断片的な情報だけでも、事態が極めて深刻であることは明らかだった。
チアノーゼ。呼吸か循環器系の、致命的なトラブルの可能性が高い。
着いたのは、職人街の一角にある、こぢんまりとした家だった。扉を開けた瞬間、家の中に満ちる緊迫した空気と若い女性の押し殺したような嗚咽が、私の嫌な予感を裏付ける。
「こっちだ! 早く!」
男に腕を引かれ、奥の部屋へ。そこには、小さな寝台に横たわる、五歳くらいの男の子の姿があった。
……ひどい。 一目見て血の気が引くのが分かった。顔色は青紫色を通り越して土気色に近く、唇は完全に色を失っている。胸はほとんど上下しておらず、呼吸は停止しているか、あるいはそれに近い状態だ。
脈は……かろうじて触れるかどうか。これは、心肺停止寸前、あるいは既に……!
「坊や! 坊や!」
母親が必死に呼びかけているが、男の子の反応はない。
「いつからこの状態に?」
「わ、分からない……さっきまで、少し咳をしていただけだったのに……急に、ぐったりして……!」
父親が震える声で答える。
子供の傍らに膝をつき、その小さな身体を素早く観察する。
重度のチアノーゼ、ほぼ無呼吸状態、触れた首筋の脈は絶望的に微弱……。先日「知識習得」したばかりの高度な診断知識が、これらの観察結果を結びつけ、脳内で瞬時に結論を導き出す。
——これは、おそらく急性喉頭蓋炎か、それに類する異物などによる、突発的で完全な上気道閉塞だ。それによる窒息、低酸素状態からの心停止寸前……! このままでは、数分と持たない。
必要なのは、何よりもまず気道の確保、そして心肺機能の補助だ。頭の中に、命脈の書の該当項目が浮かぶ。『救急処置』……!
【高度心肺蘇生補助】
┣ 知識習得: 2,000,000
┣ 使用: 200,000 [効果:一時的に心肺機能を補助する器具を生成、または効果を発動]
【強心薬(緊急時)】
┣ 知識習得: 1,000,000
┣ 使用: 100,000 [効果:心停止時に有効な強心薬(1回分)を生成]
【小児用気管挿管セット】
┣ 知識習得: 500,000
┣ 使用: 50,000 [効果:気管挿管用具一式(1回分)を生成]
……駄目だ。どの項目も今の私には全く手が届かない。「使用」ですら、最低でも金貨五枚分の価値が必要……。今の手持ちでは、どうにもならない。
これまでに得た莫大な価値は、先日、必要に迫られて解放した『高度診断技術』の「知識習得」に、そのほとんどを注ぎ込んでしまった。
なぜ、あの時、知識習得をしてしまった? もっと価値を貯めて、こういう緊急時の「使用」に備えるべきだったのでは……? いや、違う。そもそも、どんな状況に対応できるかなんて、分かるはずがない。結局は、価値(お金)が足りない。ただ、それだけだ。
「どうしたんだ! 早く……!」
父親の悲痛な声で、現実に引き戻される。本に頼れないのなら、やるしかない。自分の持てる知識と技術だけで。
「圧迫を続けてください! 私が呼吸を!」
私は子供の気道を確認し、人工呼吸を開始する。だが、胸の上がりはほとんどない。胸骨圧迫を続ける父親の手にも、次第に迷いが生まれているのが分かる。
時間が、ただ無情に過ぎていく。部屋の隅で母親が崩れ落ち嗚咽する声。父親の荒い息遣いと、私の、空しく響く呼気吹き込みの音。そして、小さな身体から、急速に熱が失われていく感触……。
どれくらいそうしていただろうか。ふと、父親の手が止まった。私も、人工呼吸を止める。
部屋に、完全な静寂が訪れた。
男の子の胸は、もう、ピクリとも動かなかった。閉じられた瞼は、二度と開くことはないだろう。
……また、だ。
また、救えなかった。目の前で、失われていく命を、ただ見ていることしかできなかった。
あの時——数日前の、別の寝台で息を引き取った男性の時とは違う。今回は、もし本を使う「価値」さえあれば、あるいは……という思いが、どうしても拭えなかった。金貨五枚、あるいは大金貨一枚。それがあれば、この子の心臓を再び動かせたかもしれないのだ。
父親は力なく床に座り込み、ただ呆然と動かなくなった息子を見つめている。母親は、もう声を出す力もないのか、ただ静かに涙を流し続けていた。
彼らは私を責めなかった。施療院でも匙を投げられたであろう絶望的な状況だったのかもしれない。感謝の言葉すら、もう、なかった。ただ、深い、深い絶望だけが、部屋を満たしていた。
その絶望は、私の心にも伝播し、そして、何かを決定的に変質させた。
後悔? 罪悪感? そんな生ぬるい感傷は、もう意味がない。必要なのは、結果だ。命を救うという、絶対的な結果。そのためには、力がいる。圧倒的な力が。そして、その力は、「価値」によってのみ得られる。
きれいごとでは、誰も救えない。理想だけでは、命は繋げない。ならば——。
静かに立ち上がる。亡くなった子供と絶望に打ちひしがれる両親に、深く一度だけ頭を下げた。そして、何も言わずに、その家を後にした。
夜明け前の、冷たい空気の中を歩きながら、私の心は、不思議なほど凪いでいた。いや、凪いでいるのではない。凍てついているのだ。
もう、迷わない。後悔も、罪悪感も、今はただの足枷だ。この子の命を奪ったのは、私の価値(お金)が足りなかったから。金貨五枚、あるいは大金貨一枚……それさえあれば……あるいは。その事実だけが、絶対だ。
必要なのは結果。命を救うという、絶対的な結果。そのためには、力がいる。命脈の書の、圧倒的な力が。そして、その力は、「価値」によってのみ得られる。
どんな手段を使ってでも、価値(お金)を手に入れる。そして、本の力を解放する。たとえ、その過程でどれだけのものを踏みつけにすることになったとしても……それが、唯一、この絶望から抜け出す道なのだ。
……だが、同時に、別の思いも、冷えた心の隅を掠めた。
今回必要だったのは、金貨や大金貨という莫大な価値だった。けれど、街で日々目にしていた、もっとありふれた病や怪我は? あのキズハ湿布の『使用』は銭貨一枚。習得した感冒薬の『使用』も銀貨五枚。それですら、払えない人々がいる。
高額な力だけを追い求めて、それで本当に……全てを救えるのか? あの薬草店の少女のような存在が、もう少し確かな知識を持てれば……?
いや、今は考えるな。 私はその思考を、無理やり頭の奥に押し込めた。優先順位がある。まずは、手の届かない命に手を伸ばすための力を得ること。
それができなければ、何も始まらない。基本的な医療をどうするか、などと考えるのは、その力を手に入れてからだ。
冷たい決意だけを胸に、私は夜明けの薄明かりの中を、自分の部屋へと向かっていた。




