第19話 薬草店の少女
あれから数日、私の頭の片隅には、あの小さな薬草店の光景が残っていた。市場から少し外れた職人街で見かけた、古びた店構え。そして、そこで一人、懸命に薬草を扱い、訪れる人々に寄り添おうとしていた若い女性……。
なぜ、あれほど印象に残ったのだろう。彼女の扱う民間薬が私の知る医学から見れば、おそらく気休め程度のものに過ぎないことは分かっている。聖ルカ施療団の治療ですら限界があるのだ、個人の小さな店なら尚更だろう。
それでも、あのひたむきさは何だ? ネイルが見せた博愛的な理想とも違う。もっと地に足の着いた、日々の暮らしの中で、できる限りのことをしようとする誠実さ。
そして、そんな彼女を頼ってくる人々がいるという現実。私が切り捨てた、「ありふれた病や怪我」に苦しむ人々が、最後に辿り着く場所の一つなのかもしれない。
私には、私の選んだ道がある。高額な対価を得て、本の力を解放し、他の誰にも救えない命を救う。そのためには、小さな需要に応えている余裕はないはずだ。
……だが、本当にそれでいいのか? あの少女のような存在が、もう少しだけ、正しい知識を持てたなら……?
考えがまとまらないまま、気づけば私の足は再びあの職人街へと向かっていた。目的は、ない。ただ、もう一度、あの店を見てみたかったのかもしれない。
店の前まで来ると、ちょうど彼女が店先で薬草を干しているところだった。飾り気のないエプロン姿。私に気づくと、少し驚いたように動きを止め、小さく会釈した。私も会釈を返す。
何か、話しかけるきっかけは……。そうだ、キズハ。
「こんにちは。少し、薬草について伺っても?」
「あ、はい。いらっしゃいませ」
彼女は少し緊張した面持ちで店の中へ私を促した。改めて見ると、店内は狭いが、様々な種類の乾燥薬草や鉱石などが、きちんと整理されて棚に並べられている。清潔感があり、店主の丁寧さが伝わってくるようだ。
「あの……キズハ、という薬草についてなのですが」
「キズハ、ですか? ええ、切り傷なんかによく使いますけど……」
「先日、怪我をしたお子さんに使う機会がありまして。その時、葉をすり潰して、傷を綺麗にしてから湿布にしたのですが……そういった使い方は、こちらでは一般的ですか?」
私の言葉に、彼女は少し目を見開いた。
「えっ? すり潰す? それに、傷を洗ってから……? いえ、普通は、葉をそのまま揉んで貼るだけですけど……。その方が、効くんですか?」
「ええ。葉の成分がよく染み出しますし、何より、傷口からばい菌が入るのを防げますから。化膿……傷が悪くなるのを、防ぎやすいはずです」
「ばい菌……」
彼女は、初めて聞く言葉のように、小さく繰り返した。
「あ、あの、私、ミーナと言います。あなたは?」
「……イロハ、とだけ」
本名を名乗ることに、わずかな抵抗があった。
「イロハさん……。その、傷を洗うとか、ばい菌とか……どこでそういう知識を?」
ミーナは、探るような、それでいて純粋な好奇心に満ちた目で私を見る。
「……少し、遠い場所で、医療の基礎を学んだことがありまして」
曖昧に答えるしかない。彼女は「へぇ……」と感心したように頷いた。
「私なんて、お婆ちゃんから教わった、昔ながらのやり方しか知らなくて。本当に効いているのか、不安になることもあるんです」
正直な言葉だった。彼女の誠実さが伝わってくる。
「ですが、あなたのやり方、理にかなっている気がします。今度、試してみても……いいでしょうか?」
「ええ、もちろん。傷は清潔にするのが基本ですから」
私がそう言うと、ミーナは嬉しそうに顔を輝かせた。
「ありがとうございます! あ、そうだ、もし良かったら、これ……」
彼女は棚から、乾燥した別の薬草の束を取り出した。
「これは、ただの咳止めなんですけど、少し喉が楽になるんです。お礼と言ってはなんですが……」
「……ありがとう。いただきます」
差し出された薬草を受け取る。特別なものではないのだろうが、彼女の気持ちが嬉しかった。
それから少しだけ他の薬草のことや、街で流行っている病気のことなどを話した。
彼女の知識は民間伝承の域を出ないものだったが、その観察眼や、薬草に対する真摯な態度は、確かなものがあるように感じられた。
店を出る時、ミーナは「また、いつでも寄ってください。薬草のこと、もっと教えていただけたら嬉しいです」と、少しはにかみながら言った。
私は何も答えず、ただ小さく頷いてその場を後にした。
彼女と関わることで、私の目的に何か直接的な利益があるわけではない。むしろ、時間を取られるだけかもしれない。だが……。
あの小さな店とミーナという少女の存在が、私の心に奇妙な温かい感触を残していた。高額な価値を追い求める一方で、こういう繋がりも、あるいは……。
いや、今は考えるべきではない。私は思考を振り払い、自分の拠点へと足を速めた。まずは、次の依頼を見つけ、価値を稼ぐ。それが最優先だ。