第17話 仮面と天秤
あの夜以来、何かが決定的に変わった。目の前で失われた命と自分の無力さ。そして、それを覆し得るのは、命脈の書の力——すなわち、莫大な価値(お金)だけだという冷徹な事実。感傷も、理想論も、今の私には不要なものだ。必要なのは、結果。結果を出すための、力と価値。
私は、活動の方針をより明確にした。まず、拠点の部屋の扉に掲げた看板の文言を少し変えた。
『難治・奇病の相談、承ります。ただし、高額の対価を支払う意思のある方のみ』。以前よりもさらに門戸を狭め、そして明確に「金」を要求する姿勢を示した。
ギルベルト商会の噂は、やはり富裕層の間で静かに広がっていたらしい。紹介状を持たない私のような存在でも、「あの商会長が頼った娘なら」と、一縷の望みを託して訪ねてくる者が現れ始めた。
それは、長く原因不明の痛みに苦しむ老舗の主人だったり、事故で再起不能とされた職人の家族だったりした。
私は訪ねてきた依頼人に対し、まず冷静に症状を聞き、可能な範囲で診察する。そして、命脈の書で対応できそうな項目を見つけると、その効果とリスク、そして必要となる対価を一切の感情を排して提示した。
提示する額は、本のコストに、次の「知識習得」のための資金を上乗せしたものだ。当然、相手は驚愕し、時には激昂した。
「法外だ! 足元を見ているのか!」
「……ですが、他では治せないのでしょう? これが、私の提示できる唯一の可能性です。受け入れられないのであれば、お引き取りください」
私は表情を変えずに言い放つ。最終的に、他に選択肢のない彼らは、渋々ながらも条件を飲むしかなかった。
そうして得た莫大な対価で、私は本の「使用」スキルを発動させ治療を行った。結果は必ずしも常に成功とは限らなかったが、多くの場合、既存の医療では考えられないほどの改善を見せることができた。
その度に、私の「悪徳だが腕は立つ謎の治療師」という評判は、歪んだ形でルント市の一部に浸透していった。
一方で、私の元には、以前キズハ湿布で助けたような、わずかな銅貨や銀貨しか持たない人々も訪ねてきた。
長引く咳、治りの悪い傷、原因の分からない微熱……。以前なら、できる範囲で手を差し伸べたかもしれない。だが、今の私にその余裕はない。
「申し訳ありませんが、当方では現在、重篤な方、そして十分な対価をご用意いただける方以外は、診察しておりません。施療院へ行かれることをお勧めします」
扉を開けもせず冷たく言い放つ。扉の向こうで落胆したような声や、時には罵倒するような声が聞こえても、私は心を動かさないように努めた。一人を僅かな対価で助けても、本当に救うべき多くの命に必要な力は手に入らないのだから。これは、必要な犠牲なのだ、と。
そんなある日、仕事を終えて部屋に戻ろうと市場の近くを歩いていると、見知った顔に行き当たった。
聖ルカ施療団の若い治療師、ネイルだ。彼は、道端でぐったりとしている貧しい身なりの老人に付き添い、優しく声をかけ、持っていた水筒の水を飲ませてやっているところだった。
その姿は、以前遠目に見た時と同じように、ひたむきで、献身的に見えた。
——だが、それで老人の根本的な苦しみ(おそらくは栄養失調か、何らかの慢性疾患だろう)が解決するわけではない。彼は一時的な慰めを与えているに過ぎないのではないか?
そんな考えが頭をよぎった時、ネイルがふと顔を上げ、私に気づいた。
彼の目に、わずかな驚きと、そしてすぐに探るような色が浮かぶ。私の服装が以前と違うことや、あるいは、街で囁かれ始めた私の悪い噂を、彼も耳にしているのかもしれない。
私たちは、しばし無言で見つめ合った。先に口を開いたのは、彼の方だった。
「……あなたが、ギルベルト殿のお嬢さんを?」
その声には、純粋な疑問と、かすかな非難の色が混じっているように感じた。
「……ええ」
短く答える。何か言われるだろうことは、覚悟していた。
「素晴らしい腕だと伺いました。ですが……同時に、法外な対価を要求される、とも」
やはり、噂は届いている。
「必要な対価です。私の使う薬や技術は、それだけの価値を要しますので」
「しかし……! それほどの力があるのなら、対価の多寡に関わらず、苦しむ人々を広く助けるべきではありませんか? それが、医療に携わる者の務めだと、私は……」
彼の言葉は、真っ直ぐで、青臭いほどに理想論だった。かつての自分なら、共感したかもしれない。だが……。
「理想だけでは、命は救えません。薬を作るにも、技術を磨くにも、現実には『元手』が必要なのです。あなたは、祈りだけで全てを解決できると?」
少しだけ、挑発するように言い返す。ネイルは一瞬言葉に詰まったが、すぐに強い意志を目に宿して反論した。
「祈りは無力ではない! それに、私たちは持てる限りの薬草や知識で、対価を求めず人々を支えている! あなたのように、金で命を選別するようなことはしない!」
「……そうですか。ですが、その施療院で見捨てられた人が、私の元を訪れることもあるのですよ?」
私の言葉に、ネイルはぐっと唇を噛み、何も言い返せなくなった。その顔には、悔しさと、無力感が滲んでいる。
それ以上、彼と話すことはなかった。私は彼に背を向け自分の部屋へと歩き出す。
彼の真っ直ぐな瞳と、非難するような声が、妙に耳に残っていた。だが、揺らがない。彼のやり方では、あの時の男性も、ギルベルト商会の娘も、救えなかったのだから。
その夜、私は久しぶりに、あの男性が眠るであろう墓地の方角へと足を向けた。もちろん、墓の場所など知らない。ただ、月明かりの下、静かな場所で一人、目を閉じる。
蘇るのは、救えなかった命の記憶と感謝の言葉。そして、今日出会った、ネイルの真っ直ぐな瞳。
——これでいいのだ。
私は、自分に強く言い聞かせた。どんなに非難されようと、どんなに心が痛もうと。この先に、より多くの命を救える未来があると信じて、私はこの道を進むしかないのだ。