第16話 越えられぬ壁
ギルベルト商会の一件以来、私の元には、ぽつりぽつりと「難治の相談」が持ち込まれるようになった。もちろん、その全てが私の手に負えるわけでもなければ、依頼人が「相応の対価」を支払えるわけでもない。
「申し訳ありませんが、その症状ですと、私ではお力になれません。施療院へ行かれるか、市場の薬師にご相談ください」
「ですが、どこへ行っても良くならなくて……!」
「でしたら、なおさら私には無理です。ここでは、特別な知識や薬を必要とする、ごく限られた症状しか扱っておりません。ご理解ください」
扉の前で懇願する人を冷たく突き放す。簡単な擦り傷や、長引く咳。以前なら、キズハ湿布や、あるいは今回「知識習得」した感冒薬で対応できたかもしれない症状だ。
だが今は違う。私の目標は、もっと先にある。ここで銅貨や銀貨を数枚稼ぐことに、意味はない。心を鬼にして、断り続ける。そうしなければ、いつまで経っても、本当に救うべき命を救うための力は手に入らないのだから。
一方で、「対価を支払える」相手からの依頼は、慎重に吟味した上で引き受けた。
原因不明の皮膚病に悩む裕福な商人、事故で複雑な怪我を負った腕の良い職人……。私は彼らを診察し、命脈の書を慎重に紐解き、必要と思われる「使用」スキルのコストを見積もる。そして、それに利益——次の「知識習得」のための資金——を上乗せした金額を、臆することなく提示した。
相手は驚き、時には怒りを見せたが、他に選択肢がない彼らは、最終的にそれを受け入れた。
確実に価値は貯まっていく。目標としている「知識習得」のリストも、少しずつだが現実味を帯びてきた。この調子でいけば、いずれは……。そんな、わずかな手応えを感じ始めていた、ある日のことだった。
夜更けに、部屋の扉が激しく叩かれた。何事かと警戒しながら扉を開けると、血相を変えた男が立っていた。身なりは貧しいが、切羽詰まった様子が尋常ではない。
「頼む! 女房が……! 女房が腹を押さえて苦しんでるんだ! 昼過ぎから、どんどん酷くなって……!」
「落ち着いてください。詳しい症状は?」
「わからねえ! とにかく、ものすごく痛がって、吐いて……! 施療院に運ぼうとしたんだが、途中で動けなくなっちまって……!」
嫌な予感がした。急性腹症……虫垂炎か? 腸閉塞か? あるいは、もっと別の……。いずれにしても、緊急を要する状態であることは間違いない。
「案内してください!」
男に促されるまま、夜のルント市の道を走る。着いたのは、私が拠点とする部屋とさほど変わらない、小さな裏店の住居だった。
部屋に足を踏み入れた瞬間、状況の深刻さを悟った。狭い寝台の上で、若い女性が身体を「く」の字に折り曲げ、呻き声を上げている。顔面は蒼白で、冷や汗がびっしりと浮かび、呼吸も浅く速い。腹部に触れると、板のように硬く、触れただけで激痛が走るらしく、女性は悲鳴を上げた。
腹膜炎……! 間違いない。原因は特定できないが、腹腔内で何らかの深刻な事態(虫垂の穿孔、消化管穿孔など)が起きている可能性が高い。一刻も早く開腹手術を行い、原因を除去し、腹腔内を洗浄しなければ、命に関わる。
頭の中で、命脈の書を開く。『外科』カテゴリー、『開腹術』……。
【腹腔内膿瘍ドレナージ】
┣ 知識習得: 8,000,000
┣ 使用: 800,000
【急性虫垂炎切除術】
┣ 知識習得: 10,000,000
┣ 使用: 1,000,000
【消化管穿孔閉鎖術】
┣ 知識習得: 15,000,000
┣ 使用: 1,500,000
……表示された数字に眩暈がした。知識習得はもちろん、一時的な「使用」ですら、百万単位の価値が必要だ。今の私の全財産では、全く、全く足りない……!
「おい! 何か……何かできないのか!」
夫が私の腕を掴み、叫ぶように言った。その目には、涙が浮かんでいる。
「……申し訳、ありません」
声が、震えた。
「この症状は……私の手に負えるものでは……。今すぐ、何か特別な処置をしなければ、命が……。ですが、私には、そのための……薬も、道具も、技術も……」
——価値(お金)が、ない、と。喉まで出かかった言葉を、必死で飲み込む。
「そ、そんな……! なんとか……なんとか頼む! 金なら……金なら、何とかする! 全財産、出すから!」
男はそう言って、部屋の隅から小さな革袋を取り出し、震える手で中身をぶちまけた。銀貨が数枚、そして大量の銅貨と銭貨……。合わせても、おそらく金貨一枚(価値一万)にも満たないだろう。
……駄目だ。
絶望的な事実が、冷たく胸に突き刺さる。この価値では、本は何の力も貸してくれない。
それでも……! 私は、せめてもの対症療法を試みた。痛みを和らげるための体位の工夫、脱水を防ぐためのわずかな水分補給……。だが、それらは焼け石に水だった。女性の呼吸は次第に弱々しくなり、意識レベルも低下していく。できることは、もう、何もなかった。
夜明けを待たずして、彼女は、夫に看取られながら、静かに息を引き取った。
部屋に残されたのは、夫の慟哭と、私の、あまりにも深い無力感だけだった。
私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。あの時と同じだ。知識はあっても、救うための手段(価値)がない。目の前で、失われていく命を、ただ見ていることしか……。
「……ありがとうよ」
不意に夫が顔を上げ涙に濡れた目で私に言った。
「施療院じゃ、『もう手の施しようがない』って、祈祷だけで……。あんただけだ、最後まで診てくれたのは……。……ありがとよ」
感謝の言葉。だが、それは、前回よりもさらに重く、私の心を抉った。