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第13話 投じられた対価

 大金貨一枚——価値にして十万。その重みが現実のものとして私の手にずしりとのしかかる。

 ギルベルト商会長から震える手で託されたその硬貨は、単なる金属片以上の、娘の命そのもののように感じられた。失敗は許されない。後戻りはできない。


 商会長夫妻に一礼し、治療の準備のため、少しだけ時間をいただくことを告げる。

 幸い、娘さんの寝室とは別の、客間のような小さな部屋をすぐに用意してくれた。使用人にも、しばらく誰も近づけないように、と商会長が厳命する。彼らの必死さが伝わってきた。


 一人きりになった部屋で、私は扉に鍵がかかることを確認し、深く息を吸い込んだ。手のひらの大金貨が冷たく重い。これから、この価値の半分を使って、本から薬を生成するのだ。

 目を閉じ、意識を集中させる。頭の中に命脈の書(ルート・オブ・ライフ)のページを思い描く。

 該当するであろう『感染症』、あるいは『呼吸器疾患』のカテゴリー。その中から、症状に最も合致し、かつ今の私が「使用」できる可能性のある項目を探す。……あった。強力な抗菌作用を持つとされる薬。おそらくは、広範囲の細菌に有効なタイプだろう。


【広域抗菌薬】

  ┣ 使用: 50,000 [効果:深刻な細菌感染に対し有効な薬剤(効果持続型)を1回分生成]

  ┣ 知識習得: 2,500,000 [効果:恒久的な合成知識を獲得。以後、「使用」コストが……]

  ┗ 生成解放: (空白)


 ……使用コスト、五万。大金貨の半分。やはり高額だ。だが、これしかない。そして、説明にはごく小さくだが「効果持続型」と書かれている! これなら、一回の使用で効果が期待できるかもしれない。

 私は改めて決意を固め心の内で本に命じた。価値五万を対価に、この薬の「使用」を!


 瞬間、頭の中で何かがカチリと噛み合うような感覚。そして、目の前の空間——何もなかったはずの部屋のテーブルの上にふわりと光が集まるのを感じた。

 光が収まると、そこには昨日よりもさらに小さな、透明なガラスのアンプルが一つ、静かに置かれていた。中には、無色透明の液体が満たされている。これが……価値五万の薬。


 アンプルを慎重に手に取る。これを使うための注射器や点滴セットなど、もちろんない。経口投与するしかないだろう。効果は落ちるかもしれないが、やらないよりはましだ。

 私はアンプルの先端を折り、用意されていた水差しから少量だけ水を汲んで、薬液と混ぜ合わせた。


 再び少女の寝室へ向かう。商会長夫妻が、祈るような顔で私を見ていた。


「薬の準備ができました。飲ませてみます」


 頷く二人に見守られながらベッドサイドへ。少女の意識は朦朧としている。スプーンを使って、希釈した薬液を少量ずつ、慎重に彼女の口へと含ませる。

 わずかに眉をひそめたが、こくり、こくりと、ゆっくり嚥下していくのが見えた。全て飲ませ終えるまで、息を詰めて見守る。


 あとは待つだけだ。薬が効くことを。彼女の身体が病に打ち勝ってくれることを信じて。


 ベッドのそばに椅子を借りて腰を下ろして彼女の様子を注意深く観察し続けた。

 時折、冷たい水で湿らせた布で額を拭い呼吸の状態を確認する。商会長夫妻も、部屋の隅で身じろぎもせず固唾をのんで見守っている。

 重苦しい沈黙と少女の苦しげな呼吸音だけが部屋を満たしていた。


 どれくらい時間が経ったのか。窓の外が藍色に染まり始めた頃。


 少女の呼吸が、ほんの少しだけ深くなったような気がした。気のせいかもしれない。だが、先ほどまで聞こえていた、喉の奥で絡まるような嫌な音が少しだけ減っているように感じる。

 額に触れると依然として高い熱が続いている。だが、わずかに……ほんのわずかに、汗が滲んでいる?


 さらに数時間が経過し、夜が更ける頃には変化はより明らかになっていた。呼吸は、まだ速いが、規則的になってきている。顔の赤みも、心なしか引いてきた。そして、あれほど続いていた激しい咳の発作が、今は落ち着いている。


「……熱が、少しずつですが、下がり始めています。呼吸も、少し楽になっているようです」


 静かに告げると、商会長夫人が、はっと顔を覆って、静かに泣き始めた。商会長も、固く握りしめていた拳をゆっくりと開き、深い安堵の息をついたのが分かった。


 だが、まだ油断はできない。薬の効果は続いているはずだが予断は許さない状況だ。私はその夜、寝室の隣の部屋で仮眠を取りながら、交代で様子を見に来る使用人と連携し、彼女の状態を監視し続けた。


 翌朝、そしてその翌日も少女の回復は続いた。熱は着実に下がり、咳も減り、少しずつだが水分やスープを口にできるようになった。

 三日目の朝には、まだ衰弱してはいるものの、はっきりと意識を取り戻し、か細い声で母親を呼んだのだ。


 奇跡だ、と誰もが思っただろう。施療院も見放した娘が見ず知らずの娘が処方した薬で、回復に向かっているのだから。


 私だけが知っている。これは奇跡などではない。適切な薬を適切なタイミングで使えば救えるはずの命だったのだ。そして、それを可能にしたのは、あの家族が支払った、あまりにも大きな対価——大金貨一枚。


 安堵と同時に改めて思い知らされる。この本の力と、それを動かすために必要な価値ミランの重さ。そして、手元に残った価値五万。これは、次の命を救うための、あるいは、より確実な力を得るための、軍資金だ。


 少女の穏やかな寝息を聞きながら、私は静かに、しかし強く、決意を新たにしていた。

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