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第12話 富者の門

 ギルベルト商会の屋敷は、私が拠点とする部屋があるような裏路地とは別世界の、石畳も美しく整備された一角にあった。

 レンガと白い漆喰で建てられた重厚で大きな構え。高い塀に囲まれ、威圧的な鉄の門が固く閉ざされている。

 門の脇には、槍を持ち、硬い表情をした門番が二人、微動だにせず立っていた。


 場違いな自分の姿を意識し、一度、ごくりと喉を鳴らす。

 懐には、昨日稼いだ銅貨が数枚と、なけなしの銀貨が一枚だけ。それで全てだ。こんな身なりで、この門を叩いたところで、まともに取り合ってもらえるはずがない。

 だが、引き返すという選択肢はなかった。苦しんでるであろう少女の姿と、命脈の書(ルート・オブ・ライフ)の膨大なコストが、私の背中を押していた。


 意を決して、門番の一人に近づき、声をかけた。


「……ごめんください。こちらのお嬢様が、重い病に罹られていると伺いました。私、しがない者ですが、あるいは、お力になれるやもしれません」


 門番は、私を上から下まで値踏みするように一瞥し、鼻で笑った。


「なんだ、お前は。物乞いか? それとも、どこぞのインチキ祈祷師か? 商会長がお前のような者に用はない。さっさと失せろ」


 予想通りの反応。だが、ここで怯むわけにはいかない。


「施療院や他の薬師の方々でも、手立てがなかったとお聞きしました。私の知識は……少々、特殊なものです。藁にもすがる思いだと伺いました。一度、お話だけでも聞いていただけないでしょうか」

「しつこいぞ!」


 門番が、語気を強めて槍の石突を地面に打ち付けた。その時だった。


「……待ちなさい」


 屋敷の中から、静かだがよく通る声がした。ゆっくりと現れたのは、質の良い服を着た初老の執事らしき男性だった。彼は私を一瞥し、それから門番に目配せする。


「お客様かもしれないだろう。……お嬢様のことに関して、何かご存知だと?」


 執事は、探るような目で私を見た。


「はい。私には、他のどなたにもない知識があります。お嬢様を……診察させていただければ」


 執事はしばし黙考していたが、やがて小さく頷いた。


「……よろしい。こちらへ」


 門番が重い門を少しだけ開け、私は執事に促されるまま、屋敷の中へと足を踏み入れた。

 磨き上げられた床、壁に飾られた絵画、高価そうな調度品。自分の場違いさが際立つ。

 通されたのは、重厚な書斎のような部屋だった。部屋の奥には、立派な机を前に、憔悴しきった顔の男性——ギルベルト商会長だろう——と、その隣で目に涙を溜めた女性が座っていた。


「……君が、娘を治せるかもしれない、と?」


 商会長が、すがるような、それでいて疑うような目で私を見る。


「可能性はあります。ですが、まずは診察させていただかなければ、何とも言えません」

「……わかった。案内しよう」


 案内された寝室は広く、豪奢な天蓋付きのベッドが置かれていた。だが、部屋の豪華さとは裏腹に空気は重く淀んでいる。

 ベッドに横たわる少女は十歳くらいだろうか。顔は赤く上気し、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。時折、激しく咳き込む姿は痛々しい。枕元の布は汗でぐっしょりと濡れていた。

 脈を取り、呼吸音を聞こうと胸に耳を近づけ、顔色、唇の色、爪の状態を注意深く観察する。

 症状からすると、重い肺炎か、あるいはそれに類する感染症の可能性が高い。この世界の病気についての知識はないが、基本的な病態生理学は変わらないはずだ。


 診察を終え、書斎に戻る。商会長夫妻が、固唾をのんで私の言葉を待っていた。


「……非常に危険な状態です。肺の深いところで、悪いものが広がっている可能性があります」

「それは……施療院でも、同じようなことを……」


 夫人が声を詰まらせる。


「ですが、原因を取り除くことができれば、回復の見込みはあります。私には、そのための……特別な薬を使う知識があります」


 本の力を、そう言い換える。


「本当か! それで娘は助かるのか!」


 商会長が身を乗り出した。


「絶対とは言えません。ですが、現状で最も可能性のある方法だと考えます。ただし……」


 ここで、私は意を決して告げた。


「その薬を用いるには、極めて希少な材料と、高度な技術を要します。ですので……相応の対価を、先に頂戴する必要がございます」

「対価……? いくらだ。いくら必要なんだ!」


 私は一度だけ目を伏せ、そして、はっきりと告げた。


「……大金貨、一枚でございます」


 価値にして、十万。日本円にして、十万円相当。

 部屋が、凍り付いたように静まり返った。商会長夫妻は、信じられないという顔で私を見ている。大金貨一枚……この世界の一般庶民にとっては、一生かかっても手にできないかもしれない金額だろう。


「だ、大金貨……だと……? 正気か、君は!」


 商会長の声が震えている。


「承知しております。ですが、それをお支払いいただけなければ必要な薬を用意することはできません。もしご不満であれば、この話は……」

「待ってくれ!」


 立ち去ろうとする私を商会長が制した。彼は妻と顔を見合わせ、深く、深く、ため息をついた。その目には、絶望と、ほんのわずかな希望が揺らめいている。


「……わかった。娘が……娘が助かるというのなら……。大金貨一枚、用意しよう。ただし、もし……もし、駄目だった場合は……」

「その時は、この身をもって償いましょう」


 私は、感情を押し殺し、静かに答えた。

 重い沈黙の後、商会長は力なく頷いた。


「……頼む。どうか、娘を……」


 契約は、成立した。

 部屋を出て、再び屋敷の廊下を歩く。手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。胸の中では、高揚感と罪悪感が渦巻いている。

 大金貨一枚……! これで、本のいくつかの強力な「使用」が可能になるかもしれない。あるいは、「知識習得」への大きな足掛かりになる。だが、そのために、私は今、人の命を担保にしたのだ。


 失敗は許されない。絶対に。

 私は、これから行うべき治療——本で確認した、おそらく必要となるであろう強力な抗菌薬の「使用」(コストは五万)——とその結果を思い描き、きつく唇を結んだ。

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