第11話 富める者の病
あの日以来、私の部屋の扉を叩く者はほとんどいなくなった。
『難治の相談、相応の対価』という小さな看板と、軽い傷を冷たく断ったという噂は効果てきめんだったらしい。
好都合だ。これで、日銭稼ぎに時間を取られることなく、本来の目的に集中できる。——そう、頭では理解しているはずなのに、時折、静まり返った部屋で一人、胸に空いた穴のようなものを感じることがあった。
感傷は捨てたはずだ。私は思考を切り替え行動計画を練る。必要なのは、価値(お金)。それも、莫大な。それを支払えるのは、必然的に富裕層に限られる。そして、彼らが大金を払ってでも治したいと願うのは、他の誰にも治せない「難治」の病や怪我だ。
つまり、私の探すべきは「金持ちの難病患者」ということになる。身も蓋もない言い方だが、それが現実だ。
情報収集の方法を変えた。これまでは市場の庶民的な噂話に耳を傾けていたが、それでは駄目だ。もっと的を絞る必要がある。
ルント市の中でも裕福な商人や職人が多く住むと言われる地区へと足を運ぶようになった。もちろん、地区の中に入れるわけではない。立派な門構えの家々が並ぶ通りを、少し離れた場所から観察するだけだ。
服装の良い人々、護衛を連れた商人、立派な馬車……。彼らの生活ぶりを眺めても、誰がどんな病に苦しんでいるかなど分かるはずもない。だが、何か手掛かりがないかと、使用人たちの会話や、辻馬車の御者の世間話などに、神経を集中させた。
時には、手持ちの最後の銅貨をはたいて、情報が集まりそうな安酒場の隅で、汚れた杯を舐めながら聞き耳を立てることもあった。
そんな日々が数日続いたある日、一つの興味深い噂を耳にした。
このルント市で大きな力を持つ織物商——たしか、「ギルベルト商会」とか言ったか——その一人娘が、もう何ヶ月も原因不明の熱と咳に苦しんでいるらしい。
施療院の治療も、高名な薬師の薬も効果がなく、日に日に衰弱しているという。一人娘を溺愛している商会長は、あらゆる手を尽くし、莫大な懸賞金をかけてでも娘を治せる者を探している、と。
……これだ。
高額な対価を支払える相手。そして、他の誰も治せない難病。まさに私が求めていた条件に合致する。原因不明の熱と咳……命脈の書の膨大なリストの中に、合致する症状や治療法があるかもしれない。
問題は、どうやってその商会長に接触するかだ。何の身分も実績もない私が、大店の門を叩いたところで、門前払いされるのが関の山だろう。紹介状? 推薦状? そんなもの、あるはずがない。
その夜、部屋で本を開き、可能性のある病名や治療法を片っ端から調べた。
熱、咳、衰弱……考えられる病名は多い。結核? 肺炎? それとも、この世界特有の風土病か……? 診断に必要なスキルも、治療に必要な薬も、今の私には解放できないものばかりだ。
だが、「使用」コストなら、あるいは……。もし、特定の薬の「使用」で効果が見込めるなら、そのコストを治療費として請求できるかもしれない。いや、それだけでは足りない。本の解放を進めるためには、もっと……。
数日間、ギルベルト商会の屋敷の周辺を遠巻きに観察した。警備は厳重で、人の出入りも多い。立派な身なりの薬師らしき人物や、聖ルカ施療団の紋章をつけた聖職者が出入りしているのも見かけた。彼らですら、匙を投げているということか。
ある日の午後、屋敷の門から見覚えのある人物が出てくるのが見えた。先日、街の噂で聞いた、あの若い治療師——ネイルだ。
彼は、やつれた表情の商会長夫妻に見送られ、深々と頭を下げて立ち去っていく。その背中は、どこか力なく見えた。彼ほどの評判を持つ治療師でも、何もできなかったのか……。
彼ほどの評判の治療師ですら結果を出せない。……だが、それは彼の知識や手段が及ばないだけだ。私には、可能性があるはずだ、この本があれば。問題は、その切り札を使うための「価値」と、それを手に入れるための「交渉」だ。
どうする? どうやって、あの商会長に自分を売り込む?
「私なら治せるかもしれない」——そんな根拠のない言葉を、誰が信じる? いや、根拠なら、ある。それは「他の誰も治せなかった」という事実そのものだ。彼らは、もう他に選択肢がないはずだ。ならば……。
私は一つの計画を思いついた。危険な賭けだ。だが、成功すれば、一気に道が開けるかもしれない。
懐に唯一残っていた銅貨を握りしめ、私は意を決して、ギルベルト商会の屋敷へと向かうべく、部屋を出た。失敗すれば、ただの狂人扱いだろう。それでも、やるしかなかった。冷たい決意が、再び胸を満たしていた。