第10話 歪んだ道標
夜が明けても部屋の薄暗がりの中で私は身動き一つせずにいた。
昨日の出来事が冷たい鉛のように身体の奥底に沈殿している。あの家族の悲しみ、そして感謝の言葉。それらが交互に思い出され、胸を締め付ける。だが、感傷に浸る時間はもう終わった。涙は、何の解決にもならない。
ゆっくりと身体を起こし机の上の命脈の書に手を伸ばす。
以前は希望の象徴に見えたこの本が、今は、莫大な犠牲を支払わなければ真価を発揮しない冷徹な道具に見えた。だが、これしかないのだ。この世界で、私が医師として人々の命を救うための道は。
ページを一枚一枚、確かめるように捲っていく。もう、安価な薬草の項目に用はない。キズハ湿布で稼げる銅貨など焼け石に水だ。必要なのは、もっと大きな価値。もっと早く、効率的に。
目的を変えて項目を見直す。「知識習得」や「生成解放」のコストが特に高いもの——それはつまり、この世界では治療不可能とされている病気や怪我に対する、決定的な解決策である可能性が高い。外科手術、高度な診断、強力な薬剤……。
例えば、「複雑骨折整復術」の「知識習得」は価値五十万。「急性虫垂炎手術」に至っては百万を超える。「使用」ですら、銀貨や金貨が何枚も必要になる項目ばかりだ。
これらを習得し、あるいは使用できるようになれば、他の誰にも救えない命を救える。そして、そのためには、それ相応の対価を要求しても許されるはずだ。いや、許されるどころか、それが必要なのだ。より多くの命を救うための力を得るために。
方針は決まった。
もう、軽い怪我や、ありふれた病気で日銭を稼ぐのはやめる。そんなものは、聖ルカ施療団でも、市場の薬師でも、あるいは気休め程度なら民間療法でも対応できるだろう。私がやるべきことは違う。
他の誰も治せない、「中度以上の困難な症例」に的を絞る。そして、治療を提供するかわりに、可能な限り高額の価値(お金)を要求する。その価値で、本の項目を一つずつ解放していくのだ。
冷たい決意とは裏腹に胃がきりりと痛む。これから自分がやろうとしていることは果たして正しいのだろうか?
以前の私なら、きっと躊躇しただろう。だが、脳裏にあの男性の最期の顔と、なけなしの銀貨を差し出した家族の姿が焼き付いている。躊躇している間に、また救える命が失われるかもしれない。ならば——。
私は立ち上がり、部屋に置いてあった木炭の燃えさしで、拠点の部屋の扉の外に、小さな文字で看板を書いた。
『難治の相談、承ります。ただし、相応の対価を頂きます』
これを見て、誰が訪ねてくるかは分からない。だが、これが私の新しい意思表示だ。
その日の午後、早速、以前キズハ湿布を施したことのある老婆が、小さな切り傷を作って訪ねてきた。
「お姉さん、またお願いできるかい? 銅貨一枚で……」
私は、心の内で一度だけ深呼吸し、努めて平坦な声で告げた。
「申し訳ありませんが、軽い傷の治療は、今は受け付けておりません。市場の薬師か、施療院へどうぞ」
「え……? でも、この前は……」
「方針を変えたのです。ここでは、他所では扱えないような、難しい症状の方のみを診ることにしましたので」
老婆は、唖然とした顔で私を見つめ、やがて諦めたようにため息をつき、踵を返した。その小さな背中を見送りながら、胸の奥がチクリと痛んだ。だが、すぐにその感傷を意志の力で捻じ伏せる。これも、必要なことだ。より多くの命を救うために。
日が暮れるまで、他に訪ねてくる者はいなかった。当然かもしれない。怪しげな看板と、悪い噂だけでは、誰も頼っては来ないだろう。
どうやって、「高額な対価を支払える、困難な症例の患者」を見つけるか……。
明日からは、情報収集のやり方も変えなければならない。市場の噂話だけでは足りない。もっと、富裕層が集まる地区や、あるいは、そういった情報が集まりそうな場所……。
部屋に戻り、ろうそくの灯りで再び本を開く。目標とするスキルとそのコストを確認する。指先で、天文学的な数字をなぞる。道のりは遠い。
だが、進むべき方向は定まった。歪んでいるかもしれない。非難されるかもしれない。それでも、私はこの道を進む。あの日の後悔を、二度と繰り返さないために。