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第1話 夢半ば

 医師国家試験当日、アスファルトを強く蹴って会場に向かった。今日、この日のために全てを費やしてきたんだ。

 震える指でカバンの中のくたびれた受験票に触れると、六年間の学生生活が思い出される。

 両親に反対され、家を飛び出し、何年も、何年も、自分の力で食い繋いできた。コンビニの夜勤、ファミレスの皿洗い、単発の肉体労働。睡眠時間を削り、友人の誘いを断り、ただひたすらに学費と生活費を稼ぎ、膨大な勉強と実習をこなしてきた。そして、ようやく掴んだ夢への挑戦権だ。


 逸る気持ちで早足になる。会場の門はもうすぐだ。刻一刻と迫る試験開始時刻に心臓の音が嫌に耳につく。額に滲んだ汗を手の甲で乱暴に拭った、その時だった。


 すぐ近くで甲高い悲鳴が上がった。続いて、誰かが必死に叫ぶ声。

 反射的にそちらを見る。道の先、数メートル。小さな人だかりができている。空気が一変したのが分かった。


 人垣の中心で、誰かが倒れているのが見えた。


 ——っ! 思考が追いつく前に、足が勝手に走り出していた。


「どいてください!」


 人垣を強引に押し分ける。


 アスファルトの上に老人が仰向けになっていた。顔色が悪く唇は紫色に変じている。呼吸は……していない。浅い知識しかない周囲の人々は、ただ狼狽えるばかりだ。


「誰か救急車を! すぐに! AEDを探して!」


 叫びながら老人の傍らに膝をつく。首筋に指を当てる——脈がない。気道確保。一秒も無駄にできない。


 胸骨圧迫。迷わず両手を重ね、体重を乗せる。一、二、三……! 自分の荒い呼吸音と、規則的な圧迫音だけがやけに大きく聞こえる。

 膝がアスファルトに擦れて痛いが構わない。額の汗が目に入って滲みるが拭う余裕もない。ただ、動け、動いてくれ、と念じながら、無心で腕を動かし続けた。周囲の喧騒は、もう意識の外だった。


 どれくらい圧迫を続いただろう。不意に強い力で肩を掴まれた。


「代わります!」


 救急隊員の、緊迫した声。引き継ぐと同時に、張り詰めていた糸が切れたように全身から力が抜ける。膝から崩れ落ちそうになるのを、咄嗟に地面に手をついて堪えた。老人は迅速にストレッチャーに乗せられ、救急車の中へ。


「付き添いの方は?」


 その声に、忘れていた現実が脳を殴る。試験……! だが、口をついて出たのは、自分でも予期しない言葉だった。


「……はい、行きます」


◇◇◇


 無機質な白い天井。消毒液の匂い。遠くで聞こえる電子音。

 病院の待合室の冷たい長椅子。どれほどの時間、魂が抜けたように座っていただろう。窓の外は、もう太陽が中天に昇っている。全ては、終わったのだ。


 手のひらの受験票が汗でふやけている。もう、ただの紙切れだ。何のために、あんなに……。言葉にならない思いが込み上げ、唇を強く噛みしめる。じわりと、視界が歪んだ。


「……あの」


 声に顔を上げる。看護師が、少し気の毒そうな顔で立っていた。


「先ほどの男性ですが、意識が戻られました。あなたに、どうしても、と……」


 病室のベッドで上半身を起こした老人は窓の外を穏やかに眺めていた。先ほどの危機的な状態が嘘のように顔には血の気が戻っている。私に気づくと、ゆっくりと視線を向けた。


「……君か。……ありがとう」


 静かな、だが確かな声。


「……よかったです、本当に」


 自然と安堵の息が漏れた。


「救急隊から聞いた。……君、大事な試験があったそうじゃないか。それを……すまなかったね」


 老人は、真っ直ぐに私の目を見て言った。その深く、静かな瞳。


「医者になりたいのかね?」


 核心を突く問いに息が詰まる。失ったばかりの夢。痛みを堪え、俯きそうになるのを必死でこらえる。


「……はい」


「そうか」


 老人は、何かを確かめるように頷いた。


「……儂にはね、少し、変わった伝手があってな。もし君が強く望むなら、医者への道を示せるやもしれん」

「……道ですか?」

「だが、それは……茨の道だ。君が考える真っ当な道とは違う。多くの困難が伴うだろう。……それでも、君は進みたいと願うかね?」


 老人の言葉の真意は測りかねる。けれど、閉ざされたと思っていた扉が、ほんの少しだけ、軋みながら開いたような気がした。どんな道であれ、進めるのなら——。


 迷いを振り払い、老人の目を強く見返す。そして、一度だけ、はっきりと頷いた。


 その瞬間、老人の口元に、ほんのわずかな、読み取れない種類の微笑みが浮かんだ、ように見えた。


 ——直後。


 何の脈絡もなく、抗えないほどの強烈な睡魔が、意識の根元から襲いかかってきた。ぐらり、と視界が大きく傾ぐ。瞼が自分の意思とは関係なく落ちてくる。まずい、意識が……。思考が急速に混濁し、深い、暗い水の中へ引きずり込まれていくような感覚だけが、最後に残った。


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