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【短編】悪役令嬢がよく訪れる喫茶店 〜令嬢リリー・リシュモンの赤と青〜

作者: そろまうれ



リリー・リシュモンが通行人に指差しひそひそ話をされているのは、従者を一人も付けずに歩いている令嬢だからであり、また、その目の下に濃くできたクマのせいでもある。


全体の容姿は悪くないが、暗く濃く墨のようなそのクマのせいで恨みがましいような視線であると勘違いされ、通行人は見られただけで「ヒッ」と怯える。彼らがそそくさと離れながら動かしている手の形は魔除けの聖印だった。


はあ、とため息をつき、リリーはいつものことだと切り替える。

嫌なことからは目を背け、危険からは黙って逃げ出すのが彼女の人生哲学だ。


背の高いコンパスを活かして進んだ先は、上流階層の住む区域と中流階層の区域の境目、厳然と区別されるべき地点をまたぐように建てられた喫茶店だった。


本来であればあり得ない。

両階層からの攻撃を受ける。


上流階層からは鼻持ちならない貴族のボンボンが私兵を引き連れ、難癖をつけに来る。

中流階層からは訳の分からないことをしやがってと、私設警備員という名前のマフィアもどきが荒らしに来る。


けれど、今もその喫茶店はある。

上流にしては威厳が足りず、中流にしては華美に過ぎる建築物が壊されもせずに建っているのは、難癖を弾き返した証である。


「……」


従者ではなく、自分の手で扉を開けるのは久しぶりだと感嘆しながら、その喫茶店――ブリオングロードの扉に手をかけた。



 + + +



ベルを鳴らして開けた店内は、意外なほどに質素で乱雑で居心地がいい。

全体が質素なのは木製製品で統一されているからで、乱雑なのはテーブルの大きさはまちまちで、テーブルクロスも思い思いの個性を発揮しているからだった。


他に客はいなかった。

おそらくは店主と思われる人間が、一際大きいテーブルに陣取り、熱心に本を読んでいた。

客が来たと気づいたはずだが、顔を上げず、微動だにしない。

たまにペラリとページをめくる動作がなければ彫造の類だろうと錯覚した。


見た目としては同年代。特徴といえば凄まじい集中力で読む姿。エプロンドレス姿ではあるが、それが仕事着であると思い出すのはもうしばらく先のことになりそうだ。


「失礼します。あの――」

「……」


女店主は、読む動作を変えないまま、片手で向かいの席を示した。座れ、ということらしい。


こちらは客ですが分かっていますか?

別段、居丈高になるつもりはないものの、せめて出迎える格好くらいは取って欲しい、あまりに礼を逸している――


そういった当然の文句は口まで出たものの、結局は黙って座った。

余計な争い事を避ける人生哲学が発揮されたこともあるが、それ以上にここが昔から噂の喫茶店だからだった。


曰く、店主のやる気が皆無。

曰く、料金は気分次第。

曰く、たどりつける時とつけない時がある。

曰く、かわいい子はやたら贔屓される。


曰く、令嬢が困っていれば助けてくれる、それがどのような悩みであっても。どれほど罪深い望みであっても。


リリー・リシュモンは、それに頼ったのだ。藁にも縋る思いで。

今更ここで引き返すわけにはいかない。


けれど結局、噂は噂、藁は藁であるのかもしれない。

なにせ店主が「ほふぅ……」と息をついたのは、実にそこから三十分後のことだった。


その間、菓子類はもちろん飲み物も提供されることはなかった。


「おまたせ!」

「はい……」


令嬢の視線は疑いようもなく心の底からの、恨みがましいものだった。

それは店主の朗らかな笑顔に弾かれた。


「いやあ、これ、すごかったよ、読んだ? まだ読んでない? おすすめだよぉ。やっぱり売れてるものって違うね、あっという間に読み終えちゃった」

「それはよかったですね……」

「で、ご相談?」


いきなり本題だった。

通常、季節の話題から始まり、日頃の出来事を述べて、相手のことを伺い、それから話題を出すのが会話における儀礼プロトコルだが、そんなものは完全に無視していた。


「……私は、リリーと申します」

「そう、ディアナだよ、よろしく」


自己紹介すらまだだった。


「あの、失礼ですが、本当に?」

「え、助けるよ、あなた可愛いし」


あまりにあっさりと言われた。

求めていた助けの保証が簡単に得られた。


やはり……すぐに帰るべきだったのでは?

リリーの胸中ではそんな思いが渦巻いた。


なにせ言葉が偽りに過ぎる。

目の下のクマに触れて確かめる。


「私が、かわいいわけないじゃないですか……」

「え、どうして?」

「どうして、って……」

「読んでいる間、あなたは他に触らなかったよね、それは失礼な行為だから抑えたんだ。それでいて目を閉じず、姿勢を崩さず、ずっと座り続けていた。あなたにとってそれは自然な選択だったかもしれないけど、ここを訪れる人でそう出来る人ってあまりいない。お陰でとてもいい読書時間をもらえたよ。あなたのその姿は、とても貴重で綺麗なものだったし、可愛かった」


リリーとしては困惑するしかない。

黙って座っているだけで褒められることは、あまりない。


というか、本を読むだけではなく、こちらの観察もしていたのか。


「それで、相談内容は?」


色々と順番が逆だった。

だが、気づけばリリーは喋っていた。


別に、褒められて嬉しかったからではない。


先程までの30分間の真剣がこちらを向くのは、意外と悪い気がしなかったのだ。



 + + +



リリー・リシュモンは、アベル・ロルジュと婚約した。

それは家同士の儀礼的なものだ。

最低限の義務的な付き合いだけでしかないと考えていたが、アベルは違った。


彼にとって婚姻とは、リリーを家族に向かい入れることだと、真正面から信じた。

朝夕の送り迎えはもちろん、週末ともなると家でのディナーに招待した。

可能な限り共に時間を過ごし、相互理解を図ろうとした。


だが、ひとつ致命的にすれ違う部分があった。


「その、アベルはなんといいますか、活動的、いえ、こう、鍛えるのが好きと申しますか……」

「ああ、マッチョなんだ」

「……はい」


彼は武門の家系というだけでは足りないほど、自身を鍛え上げた。

短い髪に快活な笑み、しかし真っ先に目に入るのは、その全身についた筋肉だ。

それだけ日々の鍛錬を欠かさなかった。


当初はリリーもそれに付き合おうとしたが。


「あれは、無理です」

「力強い断言だ……」


リリーのリシュモン家は、魔術の研鑽を積んだ家系である。

その全ては魔術をより効率的に行うことに特化している。


そのような者が数キロに渡って走り続けるなど不可能を越して神の領域にある。

走る姿がガックンガックンと上下する。

それでも努力はしたものの、その成長はカタツムリの進みがナメクジに成長した程度だった。殻の重みがなくなった分だけ早くはなった。


「ですが、そのお陰で、ここまで歩いてたどり着くことができました」

「魔術家系の運動不足って、想像してた以上だ」


アベル・ロルジュは筋肉バカではあるが、バカであるからこそ良い点もある。

細かいことを気にしないのだ。


べったりと黒くシミのようについた彼女のクマも、「なるほど、面白い化粧だな!」と認識していた。

他のクラスメイトがまるで死神だ、見られているだけで不幸になる、目を合わせて喋れないなど散々に言っている間に、アベルは「よし、今日は30メートル走れるようになろうな!」と誘う。


肉体的にはキツいが、心はそれほど悪くなかった。

生まれて初めて作ったクッキーを、アベルがばくばく食べる姿に愛着すら覚えた。


筋肉バカに細かいことはわからないが筋肉量の変化には敏感であり、リリーの筋肉成長を心から喜んだ。


しかし、そんな日々に一つの変化が訪れた。


「アベルに、義理の妹ができたんです……」


タイスという名のその子供は、元は庶民の出ではあったがその才能を見込んで養子に引き取った。

バネのような俊敏さ、飛ぶ鳥をつかめる反応速度、最適戦術を即断する運動知能など、身体に重きを置く家系であれば放っておかない人だった。


「ロルジュ家は、昔からそうしていたそうです……」


新入りの『家族』であるタイスに、アベルはほとんどつきっきりになった。

リリーに対してそうしていたように、タイスも家族として出迎えた。


だが、リリーとは違い、タイスはアベルの運動に無理なく追随し、場合によっては追い越すことすらあった。


「ロルジュ家の両親が、何を思ってそうしたかは、わかりません、けれど――」


誰がどう見ても、アベルにお似合いなのはタイスの方だった。

それほど背は高くないものの、それ以上に運動好きで素直な性格だ。


最近になってようやく30メートルを走りきれるようになったと喜んでいる令嬢と、30キロメートル走の新記録をとれたと喜んでいる義妹、身体性能を重んじる家系がどちらを贔屓するかなど、わかりきっていた。


「まして、この見た目です。アベル自身はともかく、彼の家族からは疎まれています」


破局の訪れは明らかだ。

すべての条件が反対している。


だが、一体どうすればいいのか。


このまま黙って「お似合いの二人」がくっつくのを見守ればいいのか?

それが良いことだから、そちらの方が誰からも望まれているからと、空気を読んで身を引くべきなのか?


「リリーさんのご両親は、この件については?」

「……そうしたことをあまり気にしない人たちです。両親は本当に儀礼的な婚姻でした。今回も、家格だけで決定したようです」


ある意味では一般的な貴族の婚姻だった。

愛する人が別の人を愛しているかもしれない、そのような苦しみが理解できない。


彼らが今夢中になっているのは魔術炉の共同研究だ。


「だから、私の両親に関して言えば、同格の別の婚約者を選べばいい、そう言うだけで終わると思います……」


そこにリリーの苦悩は考慮されない。

リシュモン家とロルジュ家の間で協議が行われ手打ちとなるだろう。


「ふぅん……」


ディアナは指を立てて確認をした。


「リリーさんは、それなりにアベルという人に愛情というか愛着はあるってことでいい? 結婚しても別に構わないくらいに」

「それは、はい、もちろん」

「けれど自分自身がそれにふさわしくない、そう思ってるから困っていると」

「タイスの方がふさわしいと、きっと誰もが思います」

「そのタイスって子にも、そう言われたの?」

「……いいえ、あの子は、いい子です。私にも懐いてくれています」

「アベルって人、割と責任感が強い?」

「はい、私に対してもタイスに対しても、自分の時間を削ってでも家族として向かい入れようとしています」

「なら、話は簡単だ」


ディアナの手には、いつの間にか薬があった。

左の掌には、赤い薬が。

右の掌には、青い薬が乗っていた。


「これを、使うといい」


その口元が悪魔のように曲がった。



 + + +



「これらは、なんですか」

「破壊するための薬だよ」

「破壊……」


薬に対してふさわしい言葉ではなかった。


「どちらかを選んで、飲ませれば、それだけであなたの悩みは解決するよ」

「家族を、破壊したくはありません」

「けど、あなたには必要だよ、この赤い薬」


掲げるように見せた。

リリーの視界が、釘付けになる。

その薬が、大きく、とても大きく見える。

まるで巨大な岩石のようだ。


「これをその義妹に飲ませれば、運動神経の一切が失われる」

「え」

「日常生活には支障は出ない、普通に暮らすことはできる、けれど、たとえばボールを投げたり、あるいは走ったり、あるいはダンスを踊ったり、そういった肉体を使ったものの一切が上手く行かない。今のあなたよりも更に下手になる」

「なにを言って――ッ!」

「優しくしてあげられるよ?」


激昂して立ち上がるリリーに忍び寄るように、その言葉は絡みついた。


「その肉体を誇示する家にはわからない。あなただけがわかってあげられる。あなただけが、自分の身体が思うように動かせないことの悲しさを、情けなさを、ロルジュ家ではできない共感ができる。あなたの望みの邪魔をする女の、誰よりも強い味方にあなたはなれる。何もかもを奪おうとした女に、何もかもを与えて上げられる。ねえ――」


その赤い薬が震えた。

まるでその薬自身が囁いたかのように。


「そうしたく、ない?」


令嬢は目を閉じた。

とても強く。


ぎゅっと瞑ったその奥で、義妹の、タイスの姿が思い浮かんだ。

アベルに対して純粋な憧れを向ける様子が。

ひたむきに自身を鍛え上げて、磨く姿が。

その熱の方向が、ほんの少し変われば、きっとそれは――


「いいえ」


立ち上がったまま、握った拳で祈りの格好を取りながら、リリーは言った。


「誰かを傷つけて、幸せをつかもうとは思いません。まして、その人の1番大切なものなら、なおさらです。簡単に奪っていいものではない」

「そう?」


ディアナは掌を閉じた。

赤い薬が見えなくなる。

まるで花のようだとリリーは連想した。


代わりのように、左の手のひらが開く。

五指が開き、青い薬が現れる。


「なら、こちら」

「それは」

「媚薬」

「……え」

「結果的にだけど、人の理性を壊しちゃうお薬」


ディアナは笑う。

今度のは鼓舞するものだった。


「効果は保証するよ。そのアベルって人は責任感が強いんでしょ? だったらそう、責任を取らせればいい」

「媚薬を使って?」

「うん」


力強くうなずき。


「やっちゃえ! 寝込み襲っちゃえ!」

「嫌ですよ!?」

「義妹を傷つけるのは嫌なんでしょ? だったら、あなた自身が勇気を出さないと」

「勇気の方向性が間違っていませんか!」

「この青い薬だけど、あなたとアベルに対してのみ効果が出るようになってるから、お呼ばれしているディナーの時、みんなが食べるスープとかに入れてもいいかもね」

「便利すぎませんか、いえ、そもそも仮に使うとしても私自身も飲む必要は――」

「ねえ」


ディアナはかなり真剣な顔だった。


「悪いことは言わないから、飲んだ方がいい。なんだったらこの青い薬ならもう一個つけるから、みんなに盛った後であなた個人で飲んで。とにかく、対策なしで行くことはおすすめしない」

「え、え……?」

「そのアベルという人は、いい人なんだと思う。けれど、肉体的には非常に鍛えられていて、常に己を律している。そういう人が本能全開で、遠慮なしの全力でぶつかってきた場合――」


その、壊れちゃうかも、と言いにくそうに続けた。


「どれだけ強力なんですか、それ!?」

「うん、痛み止め成分とかも入ってるからね。これ、いろいろな意味で元気になるお薬だし」

「い、嫌ですよ、アベルの意思を無視したくはありません!」

「むしろ素直にさせる類のものだよ?」

「それでもです!」

「どちらも嫌?」

「はい」

「ふぅん」


持ち上げ示したのは、ディアナが先程まで読んでいた本だった。


「これね、借りたものなんだ」

「……そうですか」

「明日取りに来るから、返さなきゃいけない。だから急いで読んだ、なにかお礼をしなきゃ、って思ってるんだ」

「そのようにすればいいのでは?」


言いたいことがわからず、リリーは混乱した。

貸し借りと今の話題にどんな関係が?


けれど店主はいたずらっぽく、あるいは挑発するように言う。


「この赤い薬と青い薬、いったいどちらをお礼に上げればいいと思う?」

「……え……」


掲げた本をよく見れば、端に小さくタイスと書かれた文字があった。

著者ではなく、所有を表すための文字だった。



 + + +



ここは令嬢が訪れる喫茶店だった。

それはロルジュ家養女のタイスもまた当てはまる。


赤い薬は――ロルジュ家の誰に対しても致命的な毒となる。

青い薬は――他の人の手に渡れば、どうなるかなんて火を見るより明らかだ。


「勘違いさせたらいけないから言っておくけど、リリーさんが選んだら、もう片方は廃棄する。これは誰に対してもそうしている。選択しなかった方に未練を残さないためにね」

「タイスには――いえ、本を貸してくれた方に、その場合のお礼はどうするつもりですか」

「さあ? いつもみたいにまた新しい本を貸すかも?」


クマの濃く残る顔で強く睨む。

なんて卑怯な、と言いたくて仕方ない。


「もし、私が薬を選び、使わなかったらどうなりますか」

「お好きにどうぞ。けど、それって、ここに来なかったのと変わらないよね?」


その通りだった。

確実に訪れる破局をどうにかしたくて、藁に縋ったのだ。


赤い薬で、タイスを壊す?

恋敵を排除するのか?


魔術に造詣が深い家系だからこそ、それが不可能ではないと分かってしまう。

おそらく、時間をかければ自分でも同じ薬が作れる。


あるいは――赤い薬を、アベルに。


なぜ、そんな言葉が浮かんだか判らない。

だが、その言葉は自然と湧いた。

それが示す意味に気づき、心底ゾッとした。


身体が上手く動かず、痩せ細った彼の姿が浮かんだ。

それは幻とは思えないほどリアルに、現実感を伴っていた。


そこでリリーは、心底幸せそうに彼の世話をしていた。

彼は無念そうに、けれど諦めをにじませ笑っていた。

それは不器用を共有し合う幸せだった。


「わ、私は――」


クマの深い顔を鬼のように歪ませ、その妄念を振り払う。

彼の大切なものを、自分の欲望のために奪い尽くす、そのようなことが許されていいはずがない。


「青を、選びます」

「そう? だったらあなた自身が飲むのは行為の三十分前くらいにしたほうがいいよ。ええと、一度の適量も書いとくね、量は一週間分をとりあえず」

「多すぎません……?」

「きっとリリーさんには必要だからね」


苦渋の末の決断だったというのに、店主はあっさりしていた。



 + + +



その日の夜はいつものような週末のディナー招待であり、リリーはその手に青い薬を手にしていた。

馬車で揺られる間に見たそれは、当然のことながら成分はわからない。

ためしに、ほんの僅かだけを取り分けてから服用してみたが、即座に体調が悪化することはなかった。


関係ないものが飲んだところで効果がない――


そんなのは戯言の嘘かと思えたが、少なくとも毒の類ではなさそうだった。


「ああ、リリー嬢、めずらしいな!」

「お出迎え、感謝いたします、アベル様。けれど、めずらしいとは、どういうことでしょう?」

「うむ。少し前向きになったように見える!」


そうだろうか、とリリーは疑問に思う。

自分がしようとしていることは、これ以上無く後ろ向きなのでは。


「お姉様!」


着込んだドレスなど気にした様子もなく、タイスは駆け寄る。

その明るさと素直さを感じ取り、リリーは一人頷く。


たとえ毒では無かったとしても、この青い薬を彼らに盛るようなことはできない、と。



食事はつつがなく終わった。

普段であれば帰宅するところだが。


「今夜は雨が強い。帰路にて馬がぬかるみに脚を取られ怪我をされては当家の名折れ。今夜は泊まっていくといい」


そのようなことになった。


夜着に着替え、与えられたゲストルームでリリーはひとり思う。

今のままでは、なにも変わらない。なにも変化しない。


だが、だからと言って誰かを傷つけるわけにはいかない。

誰かに薬を盛るようなこともすべきではない。


手にしたこの青い薬は、そう、自分自身に使うべきだ。

使ってそれから、アベル・ロルジュの部屋を訪れる。

それで拒否されたら、それは、仕方がない。諦めよう。


こうしたことは成功しようが失敗しようが必ず噂となる、どこからともなく漏れる醜聞となる。

破談された場合、次の婚約は相当難しくなるだろう。

今からリリー・リシュモンは、貴族令嬢としては半ば死ぬことになる。


だが――


「私自身、意外です」


鏡の中のリリーは、目の下のクマを変えないまま、きょとんとした顔をしていた。


「私って、そこまでアベル様のことが好きだったんですね」


決して後悔はしないだろうと思えた。



青い薬の効果は三十分後からだとは聞いた。

飲んでからある程度は大丈夫だと思えたが、効果がありすぎたのか、それとも薬がリリーに対しては合わなかったのか、行く足がふらついた。

気持ちもまたふらふらと揺れる。頭で上手く考えられない。


はあ、とつく吐息にすら濃い熱が伴う。

どれほど呼吸を繰り返しても、まったく足りない。


ある種のロマンチックな行動だったはずだというのに、部屋へとたどり着いたときには、もはや救助を頼むためのような有り様だった。

口元からヨダレまで垂れている。

乱雑に燃え盛る魔力を制御できない。


不用心にも鍵がかけられていない私室は、たやすく開いた。


暗く、静かだった。

アベル・ロルジュのいる暗闇だった。


よく耳を凝らせば呼吸の音が聞こえる。

平穏そのものの、規則正しいものだった。


においがする、自分のそれではなかった。

呼吸を深く何度も繰り返し、足は鍛える以前の弱々しいにも程がある頼りなさで、それでもなんとかベッドにまでたどり着いた。


――起こさなきゃ……


そう思うが、もはや限界だった。

リリーのまぶたが閉じると同時に意識も落ちた。


自分とは違うアベルのにおいを濃く嗅いだが、決してそれを不快には思わなかった。



リリー・リシュモンの一大決心の落着は、とりあえずは穏やかな朝の訪れだった。

ひさしぶりに、それこそ覚えている限り経験がないほど爽やかな目覚めだったが、すぐに「自分が無事である」という事実を理解する。


なにもされなかった。

あるいは、なにもしてはくれなかった。


つまりそれは、アベルにとってリリーはそのような存在である、ということだ。

彼はリリーを家族として扱おうとしたが、婚約者としては扱ってくれなかった。


身じろぎする気配が、横にあった。

見ればアベルが目を皿のようにして、横で目覚めたリリーを見ていた。


「申し訳ありません」


上半身を起こして、頭を下げ。


「勇気を出しましたが、無粋でした。以後はこのようなことは決してしないと約束いたします、それでは――」


気分とは裏腹に身体は軽い。

ベッドを抜け出そうとしたが、できなかった。


「あの……?」


がっしりと、腕をつかまれていた。

アベルは目を皿のようにして、リリーを見ていた。

否、それは正確に言えば違った。


目を血走らせていた。

彼の呼吸はなぜか荒かった。


「あ、あのぅ……?」


ふと横の鏡が目に入った。

昨夜、ゲストルームで見たのと同じ位置関係、同じ角度だった。

当然、同じ顔がそこにあるはずだったが、ひとつ違った。


「え」


目の下の、濃いクマが消えていた。

どれほど化粧をしても這い出るほど黒かったそれが、綺麗さっぱり顔から失われていた。

ある種、リリーの特徴を決定づけていたそれがなくなったことで、鏡向こうの顔はまったく見慣れないものとなっていた。


誰だろう、この人?


もっと見ようと近づくよりも早く、さらに腕を引っ張られた。

行く先はもちろんベッドの中だった。


「え、その」

「すまん、もう我慢の限界だ」


結局その日、リリーはもう一泊しなければならなくなった。



 + + +



店主であるディアナは新聞を広げる。

変わらず店内は閑古鳥が鳴いている。

客を非常に選り好みするのだから、日の大半はこのような具合だ。


新聞には、婚約発表を伝える記事があった。


リリー・リシュモンとアベル・ロルジュの婚約発表だった。

内々の約束事と違い、このような公式の発表を行えばもはや後戻りはできない。

家として公に、「この二人は結婚する」と表明したのだ。

違えればそれは「土壇場で約束事を破る」という評価につながる。


紙面には二人が並ぶ写真があった。

縦にも横にも大きいアベルにまず視線が行きそうなものだが、見た大半はリリーに視線が吸い寄せられることだろう。

穏やかに、けれど幸せそうに微笑む人の顔だ。

どうしてこんな美人が、いままで噂にもならなかった?


新聞紙面も、その驚きを伝えるものだった。

その美容の秘訣は、シミ取りはなにを使ったのか、そういった質問をリリーははぐらかしていた。


ディアナは「ふむぅ」と鼻息をついてから、新聞を折りたたんだ。

紙面の写真にあったリリーが、折りたたんだ後でもその場にあった。


「失礼いたします」


新聞向こうに本人が立っていた。

彼女はにっこりと微笑んだ。

幸せそのものの顔で。


「だましましたね?」


そう糾弾した。


「たばかりましたね、嘘をつきましたね、罠にはめましたね?」

「ええと、どれのこと?」

「複数の心当たりがある時点で有罪じゃないですか――あの青い薬のことです。あれのどこが媚薬ですか」

「嘘はついてないと思うよ? 結果的に、人の理性を壊しちゃうお薬だって、そう言ったでしょ」

「ひどい目に逢いましたよ!」

「こんなに幸せそうなのに?」


新聞紙面を示した。

嘘のない笑顔だった。


「ひどく幸せな目に逢いましたよ! 痛かったけれど!」

「良かったじゃん」

「あれは――」


リリーは怒らせた肩を戻しながら言った。


「もらったあの薬は、回復薬ですね?」

「そうだね」


店主はあっさり白状した。


「もっと言うと解毒薬だ」


リシュモン家は魔術に特化した家系だ。

当然、その魔力を増強するための手段は数多く行われている。

そのうちの一つに、秘伝の薬の服用があった。

それは知らない形で日々の食事に混ぜられる形で摂り、体内の魔力量を増やしていた。


リリーは、それを口にしていた。

その、『リリーには合わない薬』を。


「目の下にクマが出るのは副作用としては軽いほう。だからリリーさんの両親も放っておいた。騒ぐほどのものじゃないってね。けどね、そもそもが強い薬なんだ」


店主は肩をすくめ。


「魔力増強の主成分は、あの赤い薬とほぼ一緒。肉体的な弱さと引き換えに魔力の強化を得る。リリーさんは子供の頃から長い間ずっと、赤い薬を飲み続けた」


だからこそ、身体能力が著しく低かった。

そして、低いにも関わらず、アベルはリリーを鍛えることをやめなかった。あるいは、期待することを止めなかった。


アベル・ロルジュは、誰よりも筋肉に対しては誠実な男だ。

リリー・リシュモンのポテンシャルを誰よりも正確に見抜いた。

その能力の底知れなさを。

それが何らかの原因で阻害されており、現状では無理をさせてはいけないことも、分かっていた。


ありとあらゆる意味で惚れ抜いていた。

顔なんていう表面に興味はなかった。

そして、だからこそ、ある日起きたら目の前に、「完全に健康な状態のリリー・リシュモン」がいることにも気がついた。


そしてその人が、勇気を出して自分の寝室に忍び込んだと言ったのだ。


「安心していいよ、リリーさんは実は、誰よりもロルジュ家にふさわしい人だ」

「……少し複雑な気持ちもありますが、それは理解しました。けれど、やっぱりヘンじゃないですか?」

「どこが?」

「そう説明すればいいじゃないですか、魔力増強薬の副作用を解消するものだと。なのに、媚薬だなんて嘘までついて」

「それについては嘘じゃないよね」

「解毒薬なのにですか?」

「薬の作用によって人に効果を及ぼす、その行く先が明確に予測できるなら、そう伝えないと駄目でしょ」


ディアナは肩をすくめて続けた。


「アベル・ロルジュにとって健康になったリリーさんは、どうしたってそうなる」

「それは――」

「つまりね、青い薬を飲んだ場合」


まっすぐに指さした。


「リリーさん自身が、媚薬になってしまうの」


とてもよく効いたでしょ? と続けた。


令嬢の目の下はとても赤かった。






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[良い点] 主人公の葛藤と決断した行動 [気になる点] 赤い薬の効果も店主の言葉そのままの効果だったのか [一言] 読後感がさわやか
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