アサヒの古傷
些細な事件はあったけど同じ教室で、誰ひとり欠けぬことなく同じ顔触れでの新学期です。
まだクロード君本人が回答せぬままに進行している婚姻話は本人達にとっては大ごとですが、それは今すぐに解決できることはありません。婚約者が居るという事実は双方ともに言い寄る相手が居なくなるメリットも大きい。事あるごとに恥ずかしいアピールを強要されるものでもありませんから良いと思います。
もしクロード君の立場にあるのが先生だったら、そんな平然とする余裕は無いだろうと思われるでしょう。
一緒に居るという形は生涯の伴侶としてのみ成されるものではありません。わたしは先生と居られるのならメイドでも性奴隷でも第二婦人でも所有物でも良いのです。願いを叶える魔法として先生のモノになる。いいではないですか。
何一つ変わっていないはずの教室なんですが、何かがおかしい。
左右反転はしていない。夢の中に引きずり込まれたわけじゃない。でもおかしい。
授業内容が複雑化して先生の板書スピードも上がらざるを得なくなり、ちょっと読み辛くなりました。それはいい。分からない所はその時に聞けばいい。授業をそんなことで中断されることに怒り散らす先生ではない。
その変化に気付かなかったわけではありません。
自分自身にその変化が無いという悲しい事実を認めたくなかったのです。
皆、大きくなってませんか。
相対的な面もあるでしょうけれど、それを差し置いても大きい。
それでも男子諸君の一見の印象は変わっていない。クロード君は細身で、ポールは背丈が高く、マッシュは相変わらずのぽっちゃりだ。
今この瞬間、一番変化が見られるのはナミさんです。胸にささやかながら膨らみができたのです。誰よりも先にそういった身体の変化や成長については学んでいる身ではありますが、同年代の同性、それも隣の友人にそれが起こりはじめるのは驚くほかありません。
そうは言っても背中をそって胸を張った際にしかわからない。なんならちょっとだけ太ったかもしれないとも言える程度のサイズ。こちらから指摘しなければ気付かない程の小さな変化ですし、自分の身体を誇るか嫌うかは環境次第。大事に育ててまいりましょう。
皆それぞれスケールアップしたのだけど、変わってないのはわたしだけ。
確かに一年の間にスリッパは足から抜けなくなりましたが、それだけです。自分の目線より上の高さに手が届かない。椅子に用意されている高さ調節の穴は全て真新しいまま。先生の家で洗面台や台所に立つのにも踏み台が必要ですし、ガスコンロ奥の元栓やシンクの奥の棚には魔法無しには触れる事すら叶いません。
才能に個人差があるように、身体の成長にも差があります。伸びるタイミングが今ではないという、ただそれだけなのです。
アサヒ・トゥロモニを思い出せ。彼女は先生と並ぶとちょうどいいサイズ。いつになるかはわからないけれど、あそこまで育つことができます。だから今この場で出遅れても問題は無い。それに小さいからと言って何も問題ない。身体的な面を全て挽回できる魔法がわたしにはある。焦る必要は無いし慌てる意味もなにもない。ここで足掻いても徒労に終わる。
わかってる、わかっているんです。
頭で理解しても感情がそれについていけません。これも実家で育まれた無意識下の感情なのでしょうか。皆と一緒でありたい。同じ速さの流れに乗りたい。追いつきたいと考えてしまいます。
背丈を伸ばす努力が全て無意味とは思いません。その目的が叶わないにしても運動能力の向上や健康状態の維持に繋がります。繋がるはずです。
思い当たったが吉日とも、善は急げともいいます。
幸い、乳飲料や乳製品で腹を下す身体ではありません。それに学園都市で流通している牛乳は実家で飲んでいた物よりも品質が良い。酸っぱい香りや口腔内に残る変な渋みが無くておいしいのです。
差し当たり、先生の家の買い置きを全て飲み干しました。急にそれ一つだけを口にしたくなる現象には先生も理解していただけています。突然無くなった事には驚かれましたが、深い追及は受けませんでした。
牛乳を飲んだだけで背が伸びるのなら口に入る物全てを牛乳にしてもいいのですが、世の中そう上手い話はありません。
赤子を育てる為の液体の成分はほとんどが脂肪です。栄養バランスは悪くなるし太るというデメリットもあります。
わたしは日陰や日光届かぬ図書室で静かに読書していたいインドア派。太陽の下元気に走り回るなど積極的な運動はしたくありません。
しかし、道が無い場所を自ら切り開いて最短ルートのさらに最短を突き進むのがわたしです。運動、してやろうじゃありませんか。
牛乳の後、何が効果的なのかはわかりませんが、今すぐできて効果がありそうな体操をしてみます。
食事を終えたテーブルと椅子を部屋の横に退けて動けるスペースを作りました。体操の教科書はそのテーブルの上。
両腕を伸ばし、頭の上まで持ち上げるという背伸びの運動。
自分の身体がおかしな事になっているのに気づいたのは、その動作をした時でした。
左腕が上がりません。関節を逆に曲げたときのような引っ掛かりがあります。肩から上には動かない。無理に動かそうとするとなぜか痛みます。
わたしはこの現象をよく知っています。
畦道に整列した上で行われていた農作業前の準備体操の最中、一人だけ変な動作をしていた使用人がそれだと教えて貰ったのは覚えています。老化により全身が衰えるなか、可動範囲が目に見えて狭くなるのが肩なんだとか。
その現象の名はずばり、四十肩。
四十の半分の半分にも満たぬ歳でそこまで老けてしまったのでしょうか。それとも、治癒の魔法による寿命の短縮の影響は身体にも出てくるのでしょうか。後で先生に聞いてみましょう。
どうにか動かそうと工夫した結果、上体を反らし上を向く事で左手を上に向けることはできました。しかし、土台のほうを動かしただけなので可動域は狭いまま。根本的な解決には至りません。
成功させるまで変な踊りを踊っているうちにバランスを崩してひっくり返ってしまい、先生には心配をかけてしまいました。
先生の推測では、どこかで強い衝撃を受けて、おかしい状態のまま治ってしまったのが原因ではないかとのこと。
食堂倉庫爆発事件の傷を癒しきれなかったのかと青ざめた先生に、別の原因があるとお話しました。
原因には心当たりがありました。
わたしが講師として皆に授業を行った日、皆にも話したコーヒーと醤油と泥水を入れ替えた事件の際の体罰です。あれの後しばらく大人しくなったのは、ずっと左の肩が痛かったから。いつの間にか痛みも引いて、何の後遺症も無いと思って気にしていなかったのです。
寿命が縮むことへの合意の下、癒しの魔法をかけて貰いましたが効果は無し。
変な治り方をしてからの時間が経ち過ぎていると癒すことができない。癒しの魔法に関して新しい発見がありました。
「気付けなくてすみません。」
今日もまた、先生に謝られてしまいました。
左腕がうまく動かないのは今日まで自分も気づいていませんでしたので、先生に責任はありません。もう何年も前の話です。大火傷の際の治療でも治せなかったでしょう。それに、どんな理由があろうと暴力を振るった実の父親が全て悪い。
確かにわたしの監督と保護の責任は先生にありますが、既にそうなっていた物はもうしょうがないのです。
こうやって何もかも自分のせいだと抱え込まれてしまっては迂闊に不調を訴える事が出来なくなる。先生に心配させぬようにと体調の悪さを隠してしまうかもしれません。そうして隠し続け、いつか二人で仲良く共倒れになってしまっては先生の監督能力をも疑われることになる。何もいい結果をもたらしません。
今は現状の把握ができたことを喜びましょう。癒しの魔法が古傷には通用しないという新しい発見もありました。
親の事を思い出してしまったので、ついでに先生に尋ねてみました。
実家の、トゥロモニの家から何か連絡が無いか、と。
とても苦いものを口にしたときの表情で、一度だけあったと、先生から回答を頂きました。
自分達が産み出してしまった怪物がどんな騒動を起こしてしまったか。その責任をどう被されるのか気になったのでしょう。
実家と関わりたくないという意思を尊重してくれたようで、その問い合わせの件はわたしには伝えられず。本当に今日初めて知りました。
問い合わせに対し、トゥロモニという姓を持つ子供は籍を置いていないと、既に返答済みだそうです。
わたしは別の名でこの学園都市に入りました。なので書類上、トゥロモニの怪物は学園都市に入っていない。
あの人達は、学園都市ならうまく抑え込んでくれると期待していたはず。それなのに学園には入らず列車を飛び出して、今も行方知れず。それでいて渡した銀行口座からはお金が減っていく。これは一大事だ。
普通ならば誘拐されてしまったか、悪人と手を組んでしまったと嘆き悲しむはず。家族の愛を綴った物語はどれもそうだった。しかしあの家は普通ではない。束縛から外れたからこそ何度でも言える。あの家は普通じゃない。
自分を捨てた家への復讐の為に途中下車し、どこかに身を潜めて爪を研いでいると思っているのでしょう。そうでなければ、在籍しているかの問い合わせが一度だけで終わるわけがない。
普通の感覚ならば、途中で列車から落ちた生徒が居たり、偽名を使って街に入った人物が居ないかと再三の連絡を入れるだろう。貴族のご当主のように直接出向いて来ることも可能なはずだ。わたしの親達にはそれが無いのだ。
寂しいわけではありません。わたしの目の前には先生が居ます。それに特別学級の皆も、マツリさんもいる。なんなら宿舎の隣人たちも居る。躾と暴力をもってわたしが進むべき道を示す親など、もう必要ありません。
わたしはこれからもアサヒ・タダノとして、大好きな先生のお傍に居たいと思います。
それともうひとつ。見える形で成長したいです。




