運動音痴のアサヒちゃん
長い長い詠唱は今も続いています。
以前にも似たようなことがありましたけど、同じ状況とは言い難い。あの時はわたしを試そうとして危害を加えようと考えていなかった。ここからどう頑張っても今回は途中で止めてくれるようには思えません。
なぜならば、目の前のサヴァン・ワガニンを自称する女子生徒の勝利条件は、アサヒ・タダノの撃破だから。
彼の最大の武器である、サヴァンへの恐怖心を植え付けるのは難しい。
皆がサワガニさんを恐れるのは刷り込みだ。魔法社会では恐ろしい妖怪の類として幼い頃から悪い子の元には魔王が来て見知らぬ場所に連れていかれるぞと脅されている。
そんな妖怪が居たなら連れ出して欲しかった。連れ去る理由は自分の家来にする為だ。自ら進んで付き従うよう教育するには温かな食事と寝床は必要不可欠である。少なくとも、魔法で温度調節しなければ到底耐えれぬ寒さの土蔵よりも酷い場所で部下としての教育を与えるなんてあり得ないでしょう。
故に、この場で徹底的に叩きのめす。
この小生意気なメスガキに、どんな手を尽くそうとも絶対に勝てぬ存在であると認識させる。心では抵抗してしまうから、本能で恐怖を感じるようにしっかりとやっつける。
そうして怯えた少女に対し、打ちのめした後に服従か死かの選択を迫るのだ。敢えて回答を先延ばしにし、いつ答えを聞きに来るかに怯えて眠れぬ夜を過ごさせるのが、サヴァン・ワガニンに敵対し、生き延びた者の末路である。
心が折れればそれでヨシ。そうならなかった場合は手加減を止め全力をもって始末する。
心臓と脳を破壊して、飛び出した魂魄をその指で突き破る。それでアサヒ・タダノはおしまいだ。
痛めつけた以上、相対するのは厄介な手負いの獣である。うっかり逃がせば自身にとって大きな障害となる可能性がある。
彼が他人の命を奪う事への罪悪感や忌避感を持っているはずがない。自身が生き延びる為だけに社会と敵対し、死の運命を超えるために何人も消してきた。今更子供をひとり始末できぬとは言わないでしょう。
相手をする必要も、そんな魔法バトルに付き合う必要などありません。逃げてしまえばいい。
学園の構造を考えればそれは可能。門を潜れば彼女はわたしに追いつくことができません。
わたしは今、それをやってはいけないと、誰かに言われている気がして踏みとどまっています。
わたしと接触したことで、彼女の中に潜伏し、現れる理由がなかったサヴァン・ワガニンが表出した。
もしここで逃げたなら、彼はわたしを探すために彼女の身体を使って大暴れするでしょう。複雑怪奇な仕組みに嫌気がさして、学園の校舎諸共消し飛ばそうとするかもしれません。
そうなれば、いったいどれだけの人が傷つくのでしょう。怪我だけならばいい。無差別に人を襲う魔法が放たれてしまったら、半人前の生徒がどれだけ生き残ることができるのだろう。抵抗もままならず、自身が魔法によって体を焼かれたことすら気付けぬまま死ねば幸福かもしれない。恐怖の象徴として君臨するのには理由がある。サワガニさんは、優しい死は与えないはずだ。
彼は自然災害のように容赦なく手にかける。先生や、特別学級の皆が無事であるとは言い切れない。
わたしが逃げれば大勢死ぬ。逃げなくても人は死ぬけれど、最小の被害を考えればわたしだけで済む。
そう思ってしまったから、逃げられなくなりました。
わたしの勝利条件は、今目の前で継続中の魔法を中断させること。
時間をかければかけるだけ相手が不利になる。彼女とサワガニさんの繋がりを断つまではできなくても、学園に、先生に今の状況を報せることができるはず。後は皆に何とかしてもらいましょう。
さて、どうにかしないといけないのですが、魔法と魔法がぶつかり合う戦いでは勝ち目がありません。
相手は名だたる魔導師の中でも知らぬ人は居ないであろう人物だ。創作を超える結果を残す現実のプレイヤーに太刀打ちなどできるはずもありません。それに、今も続く詠唱が何を意味するのかさっぱり分からない。何が起こるか見てからの対処が間に合うかどうかは賭けになる。何か、搦め手が必要です。
出会ってから今までのわずかな時間で起こった事を思い出します。今の状況を少しでも変えるには目の前で起きた事だけが重要であり、それ以前の物事はノイズにしかなりません。
キープしてた彼が思い違いで勝手に失恋した話、これはどうでもいい。
これはサワガニさんの意識を乗り移らせることのできる彼女がわたしに近付く為の方便だ。無視されたとか、順番を飛ばされたとか、本当にどうでもいいほんの少しの苛立ちでも理由になる。このことは、思考の外へと追いやります。
彼女とサワガニさんは何かで繋がっている。
探査の魔法を利用してわたしと先生が口を使わずに会話できる通信と似たようなものであると仮定します。学園のセキュリティに引っかからない一本の紐を通して彼女とサワガニさんは糸電話のように連絡を取り合っている。今の彼女は底に糸の付いた紙コップ。遠くの地に居るサワガニさんの声を届けるだけのスピーカーなのだ。
意識を喪失したことで切り替えが行われた。なら、今この場で彼女の意識が覚醒したらどうなるか。
予定していた状況になっていないことで彼女が動揺するだけでも十分だ。何も起こらないのは一番まずい、無駄足だ。もしサワガニさんと彼女の接続が解除されれば願ったり叶ったりである。
わたしができることといえば、それくらいだろう。
対処すべくやる事は決まったけれど、新たな問題が浮き彫りになる。
わたしは気を失った者を強引に叩き起こす魔法を教わっていない。
イメージするにしても、夢の中を掻き回して意識を叩き起こすのか、目覚まし時計のように身体にほんの少し苦痛を与えて防衛本能による覚醒を促すべきなのかが分からない。長い詠唱が終わりそうで時間が無い。どうすれば彼女が目を覚ますのか、考える余裕が無い。
せめて考える時間が欲しい。彼、彼女の注意を引く何かが欲しい。
後先考えずに動くのは我々子供の特権だ。身につけているものを投げつければ意識は逸れるだろう。靴か、杖か、それとも上着を脱ぎ捨ててみるべきか。
ああ、杖を手にしていれば、呪文の詠唱さえもさせずにけん制できたのに。
嗅いだことのない香りを感じたことで、わたしの手が何かを握りしめていたことに気付きました。いえ、気付いたというよりは、思い出したと言うべきでしょう。
わたしの右手には、握りしめていたせいもあるのでしょうか、重みを感じる香りが漂う石鹸がありました。
これには使用者が他人の意識を操作する魔法がかけられている。香りを対象者が嗅げば、たちまち言う事を聞いてしまうという恐ろしいアイテムである。
わたしは彼女を意のままに動かしたい。そのための道具が手元にある。使用は許されていないとしても、偶然を装えばどうにでもなる。悪い事ならすぐに思いつくのが本当に不思議です。
距離は柱と柱の間ぐらい。わたしの肩でもそれくらいの飛距離は出せる。
命中は考えなくていい。彼女が匂いを嗅げばそれでいい。こちらの手札からは制服にもついてしまったんじゃないかと思う程の強い香りが漂っている。
標的は目の前にいる彼女。何でもいい、とにかく目を覚ませ。
相手に好きになってもらう必要は無い。わたしは単純な願いを込めて、石鹸を彼女に向けて投げました。
一度も使ったことはないし、使う予定もない。使用感は気になるけれど、先生との関係にこのようなものは不要である。もしサワガニさんに弾かれたとしても、払いのける動作の分だけ余裕ができるのです。
真正面に向けて投げた石鹸は、わたしの真横の壁にぶつかりました。
目の前の危機にばかり気を向けていたと言い訳するのは後にしましょう。
人生最大のピンチにおいて最も考慮すべきものを、わたしは忘れていたのです。
動かし方を習ってはいるけれど、染みついた癖はなかなか治らない。無意識に願いを形にする魔法の力を借りていたせいもあり、身体能力は同年代の同性よりも低いと言わざるを得ない。
意識しなければどうということはないのだけど、しっかり歩こうとすると手足が同時に前に出る。年齢差もあるだろうけれど、走る早さは特別学級の最下位だ。左腕が使えないのと一緒だからぶら下がり運動や鉄棒は使えない。足漕ぎの車やボートはペダルに足が届かない。身体の動きも願いを形にする魔法の自動制御に任せたいくらいなのです。
そんな中で、ボールは必ず明後日の方向に飛んで行き、真っ直ぐ前には投げられない。
歌を歌う時、音感のズレを人は音痴といい、他の物事にそれを当てはめて口にする。
それに倣うならば、わたし、アサヒ・タダノは運動に関して音痴である。
「何を、やっている?」
サワガニさんからすれば、わたしの行動は突然壁に石鹸を投げつけた奇行でしかない。
だけど、恐怖のあまり気が触れたのかと、思わず詠唱を止めて尋ねるくらいには驚いてくれました。
投げられて、壁にぶつかって、床に落ちる。臭いの詰まった袋を開けたかのように、石鹸の臭いは廊下に拡散していきます。
匂いという目に見えないものなのが怖い。これがただの香りだから良い。もしこれが無味無臭の毒ガスなら無差別に死傷者を出す大惨事になりかねない。ただの臭いで本当に良かったと思います。
ほんの僅かでも鼻に入れば成功するという触れ込みの通り、女子生徒の意識を呼び起こすことができました。
「ちょっとアンタ! 先生に何したの!?」
「何だ、きさま、何をしたァ!?」
どこか別の場所でのんびりしていたのか、無理矢理引き戻されて不機嫌な女子生徒。そして身体の制御を切り離されて、今まさに学園の外に追い出されんとするサワガニさんの、それぞれの怒声。
二つが同時に廊下に響き渡るけれど、わたしの目的は達成できましたので、おっけーです。