怒りに燃えるスパイ
クロード君とナミさんから石鹸を没収したわたしは先生に手渡すため廊下を歩いていました。
意識の外にあったせいか、それとも石鹸が持つ魔法の効果のせいなのか。
この石鹸、石鹸による石鹸のための石鹸らしい香りがとても強い。横切った時にふわりと微かに香るなんてものじゃない。臭気による忌避や誘引を目的とした薬物と言われたら信じてしまいそうです。
香りというよりも異臭。頭が痛くなってしまう程の強烈な臭いが英雄の使用済み石鹸から漂い続けているのです。
そんな臭いものを持ち運ぶのに、何の対策をしていなかったのは理由があります。
今までの活躍をもってしても特別学級への偏見は完全に拭い去れていません。因縁をつけてくる厄介者たちから身を守る為、わたしは人の目に付く場所では魔法を使わないよう心掛けていました。それ故に、縛って密封できる袋などは用意せず、そのまま持ち歩いてしまいました。
袋を用意しておけばよかった。因縁を付けられようと無視すれば良かった。後悔は、いつも事件が起きてから。
この異臭が、出会わなければ良かったものを引き付ける原因となってしまったのです。
「みつけたぞ、アサヒ・タダノ!」
誰とも出会わぬよう願いながら歩いていたわたしは、甲高い声に呼び止められました。
金属を無理にすり合わせたかのようなキンキン声が耳に入り、黒板を引っ掻いたときのような不快感が喉元を襲います。
不協和音を強引に収め一つの音とする楽器のようで、それを善いものとする発想は理解するけれど、賛同まではしたいと思わないものだ。関わりを避けていたものが現れたと思わざるを得ません。
男を取られた事について一言言わねば気が済まないと、彼女は初心者の吹く木管楽器のように外れた高音の奇声を上げながらわたしを指さしました。
興奮する彼女の話を要約すると、わたしが彼女が恋人候補としてキープしている少年の感情を揺さぶらせたらしいのです。
わけがわからない。
徹頭徹尾、いままでずっと先生しか見ていない。他の男に気があるように思われ勘違いされたならばすぐに訂正を求めた。他の誰かに恋心を向けるなんて絶対に考えられないし考えたくない。いつ、どこでそのような誤解があったのか。
「人の男を弄んでおいて、忘れたとは言わせないわ!」
猛烈に怒り狂う彼女はわたしの意思などお構いなし。思わせぶりな行動を示したお前が悪い、彼が落とした学生証を拾って手渡したのが全ての始まりだと、彼女は口にしました。
落としたものは基本的に奪われて帰って来ない。それが世の常であり、すぐさま拾って元の持ち主に手渡すなんてあり得ない。それがあったということは、即ち相手に好意を持っていると捉えて間違いない。
学園都市において学生証はあらゆるものを差し置いて優先される身分証。拾ったならばすぐさま奪い去って悪用すべきである。特別学級の悪童ならばそうするはずである。アサヒ・タダノがそうしなかったのは好意の表れのはずなのに、なんということか、そう思い至り誠心誠意付き合おうとした彼の感情を棒に振ったのだ。
わたしの持つ石鹸の異臭が漂う中、魔法では無く行為によって人を弄ぶ外道であって、絶対に許してはならないのだとまくし立てます。
わたしも、ここまで言われて何も思い出せぬほど鈍感ではありません。
他人の学生証に触れたのは今まで学園都市で生活してきた中で一度きりのことだから、忘れるはずがない。
確かに拾った。すぐに手渡した。そして彼からの申し入れを蹴っ飛ばした。
話を聞いた限りではなにかがおかしい。
彼女の話では、何か、大事な情報が欠落してしまっている。
あの時は、毎週毎日のように待ち構えられて、無理やり話しかけられた。つきまとい、ストーカーというやつだ。
自分を弱者と定義した被害妄想の塊のような人で、自身の行いは正しいものだとして一切合切顧みない自己中心的で、自分勝手な男。もし先生がこんな人間であったなら、きっと好きにはならなかっただろう人物だ。
あの男子は嫌いです。差し伸べた手を取らなかったわたしに向けて罵詈雑言を吐いて逃げていったのだ。わたしはそんな人物に対して無関心を貫ける程大人ではありません。
勝手に好きになって、勝手に幻滅した彼だけど、アサヒ・タダノという女は人を弄んで愉しんでいたと判断した。
青少年の純真な感情を弄ぶ下衆には鉄槌を下さなければならぬと、彼女は息巻いています。
知っている。わたしは実家で同じ行動に走る者を見た。
同じ職場で好きになった人物が自身のことを何とも思っていなかった事実に腹を立て、自分の失敗を全て彼女に擦り付けて追い出した男がいる。
いつぞやの狡賢い使用人も、あのときの彼も、親身になってくれる相手に都合のいい事だけを話して慰めてもらったのだ。挙句、その人物を用いて報復した。ほんの一時の勘違いで相手の人生を狂わせたのだ。
学生証を拾って手渡したのは、それを紛失した場合にどれだけ苦労することになるのかを知っているからです。
すぐに渡したのは、一度警備員に紛失物として提出した際、わたしや彼がしなくてはならない手続きの煩雑さを考えたから。
確かに申し出を断ったけれど、それは彼はわたしの事を噂話だけで理解したつもりになっていて、的外れな提案をしてきたからだ。
この場に居ない彼とわたしの主張は噛み合ってない。おそらく、相手は自分自身にとって都合のいい事しか話してはいないのでしょう。わたしへの怒りをぶつける前に再度調べ直すべきなのではないかと提案しましたが、食い気味の勢いで断られました。
アサヒ・タダノは人の心を弄ぶ外道である。その認識を変えるつもりは無いと、彼女は宣言します。
「その石鹸が何よりの証拠よ!」
なんということでしょう。
相手の事を想いながら使えば両想いになれるという噂の石鹸が、わたしの手の中にある。心を操りそう仕向ける魔法が仕掛けられている。対象がひとたび香りを嗅げば、もうその人の事しか考えられなくなる。そんな危険なアイテムをわたしが持っていました。
それを何に使うのか、言わずと知れたこと。
身長も年齢も低いガキは可愛がられるだろうけど、それ以上に蔑まれる。学園生活をより快適に送るため、男女問わず自分に好意の意識を集めようとしているはずだ。香りを嗅げば心は掌握される。感情を強制的に揺れ動かすものだから、わざとポケットから引き抜いて落とした風を装う演技を行うよりもずっと効率がいい。
その程度のことは平気でやるだろう。特別学級最悪の生徒はそういうやつなのだから。
今日、わたしの手にこれがあるのは偶然だ。危険性のわからないものを使用した友人から奪い取り、いまから先生の下へもっていこうとしているモノだ。断じて自分で使おうなどとは思っていない。そして使う予定も当然無い。
頭に血の昇った人間は自身の判断が全て正しいものと思い込む。世界の法則を捻じ曲げてツートンカラーを一色と主張するような気狂いだ。理解してもらうにはまず落ち着いて頂く必要がある。
説得や交渉は苦手ですが怒り狂う人間の感情を逆撫でしないよう、慎重に言葉を選びつつ説得を試みたつもりです。自分の男を傷つけられたと思い込む彼女は聞いてくれませんでした。
失恋に打ちひしがれる男をより自分自身に近付けることができたのだから、それでいいではないか。
たった一度の親切で恋に落ちるなという教訓にもなった。何とも思っていないこんなチビになびいてしまう気移りや、自己アピールのつもりでひたすら続ける自分語りを止めるという反省になった。キープ君とは自身の恋人候補の予備のこと。ならば、今後は傷付かぬよう、一途に自分だけを見るよう調教すればいいだけなんだ。
発火してしまいそうな程の怒りは収まりません。頭を垂れて跪き、もうしませんごめんなさいと許しを乞えば今回だけは見逃してやろうと考えていたのでしょう。謝罪も反省も無く、それどころか今後も男を惑わす魔女であり続けると言わんばかりにしらばっくれている。
彼女は想定外の事態への対処を考えていなかった。だからこうして怒り続けて軌道修正するしかないのです。
「取られただなんて、『あのお方』になんて報告すればいいのよ!」
音程の外れた歌声のようで、言葉として認識しかねていた彼女の言葉の中で、そこだけが、しっかりと廊下に響き渡りました。
彼氏候補を何人も持っているのは彼女自身の意思ではない。それを指示した人がいる。親ならば親と口にする。具体的な名前を出さずに従わざるを得ない立場であると、彼女は怒りのあまり口を滑らせた。
わざと見ないようにしていた彼女の顔色は赤から青へ。怒りから恐怖へと変化していました。
全て焼き尽くすまで止まりそうになかった怒りは引っ込んで、今度は自由を謳歌する学生生活が終わってしまう不安と恐怖が浮かびあがります。
言ってはいけないものを口にした。秘密を明かしてしまった。禁を破ってしまった。アサヒ・タダノは何でもかんでも教師に連絡するし報告するし相談する。今の言葉も学園理事会に伝達される。学生に対して何らかの介入を企んでいる計画が明るみになれば、自分もスパイとして逮捕されてしまうだろう。
心の中を読み上げる魔法を使ったわけではありませんが、多分、そんなことを考えているのでしょう。
「ごめんなさいごめんなさい、ああ、許してください!」
「失敗するのは分かっていた。案ずるな、次がある。」
許しを乞うその口から、全く別の声が飛び出しました。
一つしかない身体からふたつの声がする。人間の身体は同じ場所から別の言葉を放つようにはできていない。体の主導権を握る彼女は咳込んでしまいます。
学園の外から声を届けるなら口を使う必要は無い。彼女の中に居る人は、わたしに交信を見せつけるつもりでいるのでしょうか。
別の誰かによって、彼女の経歴が当人の口で語られます。
かつて彼女の親が彼と接触して力を借りた。その後、親は借金を踏み倒そうとして彼を裏切った。その償いとして、娘を好きに使う玩具として差し出した。
彼は可哀想な身の上にある彼女を救おうと傍に置いた。その証拠として、自身の意識がいつでも繋がれるようにしてあると、大きな身振りをしながら自分の身体に語り掛けています。
「ずっと我慢して辛かっただろう、すこし休むんだ。いつものように、俺の名を言え。」
「はい、サヴァン・ワガニン先生!」
わたしが介入する余地など無いから一人漫才を眺めていたけれど、今、この人は、とんでもないことを口にした。
その名前はそのまま洗脳の魔法の呪文になっていて、口にした魔法使いは心を奪われる。悪しき勢力の傘下として飛び去って、消耗品として扱われ、見るも憐れな姿になり果てる。
聞き取れない言葉が多々あったけれど、その部分だけは聞き間違いじゃないと言い切れる。交信の向こう側にいる男性に向けて、彼女は言葉として紡ぎ出した。史上最悪の魔王の名を、一切のためらいもなく。