遠くへ旅立つ救世主
帰りたい。
先生がこの場に居る以上、学園で一番居心地のいい場所のはずだけど、ここから立ち去りたい。
冷たいようですが、彼がどうなろうとわたし達には何の影響もないのです。
わたしじゃないわたしとは、つまり全くの別人で、自称クロード君とわたしは無関係であると断言できてしまいます。危害を加えようとしていたのだから仲間などではないし、向こうの世界の因果が流れ込んだことで急に彼に好意を抱く事なんてありえない。こいつは敵だ。わたしから先生への好意を拭い去ろうという悪漢だ。
こんな奴と関わって良いことなど何一つない。ああ、帰りたい。
彼は今も先生の魔法で縛られ吊し上げられたまま。
生気を失った虚ろな目で涙を流しているのは、自身が置かれた立場を理解できたからと思いたい。
「悪い報告はここまでだ。次は良いことを教えてやろう。」
聞いているのかいないのかわからない相手に向けて、理事長は腕を組んだまま話を始めました。
自称クロード君にはもう為す術がない。持ちうる手段を全て使い切った先に行き着いたのは変えようとした過去とは別の時空。彼一人では行くことも戻ることもできず、もはやここで失敗談を本に記して細々と売りながら絶望と後悔を胸に抱いたまま朽ちるしかできることがない。
それは一人で全てを行おうとするのならばの話である。
ここは学園都市。破滅も破壊も虐殺も起きていない、彼が取り戻そうと足掻くそれそのもの。かつてそこに在った楽園なのだ。
今この場でならば、理事長も、先生も、サワガニさんですら死んでいない。学園都市の魔力炉も健在である。付け加えるならば、学園都市と命運を共にした時間を転移する魔法さえも残っている。
奇跡というパズルを完成させるためのピースは全て揃っているのだと、理事長は力強い語調で語りかけています。
「目的の座標はわかるんだよな。なら軌道修正はできる。」
もちろん確実に成功するとは断言できない。先だって行われた宿命の対決が拗れた結果、全てが枯れ果てた世界に辿り着いて今度こそ八方塞がりになる可能性が無いわけじゃない。
縛られたままの自称クロード君に与えられた選択肢は行くか戻るかの二択。
わたし達の学園都市に留まる事は許されない。絶望に心が折れて立ち直れないのであれば、魔力を使い果たした未来へと送還される事になる。同一人物が、それも英雄が二人居ることの影響は計り知れないからだ。
進むか戻るか、諦めるか諦めないか。今の彼にはどちらかを選べる余地がある。
僅かな希望にすら見捨てられた彼は蜘蛛の糸にすら縋るだろう。
絶望に闇をも照らす強力な明かりが差し込んだ。それは即ち太陽と呼ぶにふさわしい。
「アサヒです。」
暇をつぶすため、部屋の灯りに照らされる本の背表紙のタイトルを目で追っているところでわたしの名前が呼ばれました。
話を聞いていなかったのだけど、理事長と先生の表情が苦々しい。理事長の力を借りて再度の時間転移を行うことになったのは間違いない。一度できると言った以上、男の意地がある。学園都市の魔力炉と強力な術者によって盤石の体制が布かれ、確実に目的の世界へ送り届けようと話を詰めている段階だったはず。
大人二人の表情から想定外の事態が発覚したのでしょう。ではいったい何が起きたのか。未だ縛られたままの彼の言葉を待ちましょう。
「それ、マジか。」
「はい、彼女を目印にしました。」
時間転移の魔法における座標とは、自分が行きたい時間と場所のこと。
あらゆる物事が同じ経過を辿った時間。与り知らぬ田舎の牛舎の蛇口から落ちた水滴一つさえも違わぬ世界。そこに在る何かを目印にして、時間という途方もない壁を跳躍するのが時間転移。
学園都市を襲った災禍を生き残った人達が知恵を振り絞っても失敗した魔法です。かつてカエデさんに引っ張られて別の時間に降りてしまったわたしが見よう見まねで元の時間に戻って来れたのは、天文学的な数字を越えた偶然だったのです。
自称クロード君が目的地に向かうために座標の設定が必要なのですが、そこに大きな問題が発生してしまいました。
彼が目指していた時空の座標とは、最愛の女性、アサヒ・トゥロモニであったというのです。
遠い未来で座標を設定するにあたり、彼らはアサヒ・トゥロモニという川の始点である水源地を座標としてしまいました。
経験、体験、発した言葉、ありとあらゆるもので未来は分岐します。そうして派生したものの一つがアサヒ・タダノであり、彼の求めるアサヒ・トゥロモニでもあります。
自称クロード君の目的を果たすため、無数に存在するわたしの中から彼が抱きしめたいアサヒを探し出し、座標を確定させる必要があるのです。
「失敗した原因はソレだ。座標の指定範囲が広すぎる。」
クラスメイトと全く付き合いのないまま終末の日を迎えたわたしが居る。先生に一目惚れしたわたしがいる。わたしはそうなるつもりはないけれど、今日まで全く同じ進捗でいて、この後先生との関係が破綻するわたしだって居るだろう。
今のままではありとあらゆるわたしが対象だ。どんなわたしでも愛してみせるという節操無しであれば満足もできるでしょうけれど、彼はそうじゃない。彼のアサヒは願いを形にする魔法が使えないアサヒ・トゥロモニだけなのだ。
「そういうわけだ、探してくれ。」
作戦会議で発言する権利のバトンは唐突にわたしに回されました。
願いを形にする魔法を用いて願え。彼が求めるアサヒ・トゥロモニの居る座標を特定し、術式の中に書き込めと、理事長は語ります。
何を探せばいいのかもわからない。どうやって探せばいいのかわからない。やるか、やらないか。あまりにも無茶苦茶な命令で、わたしに用意された返答は二択だけ。
わたしの魔法は使うわたし自身が限界を知らずにいます。
小さいながらも恒星に似た何かを産みだした。魔法の無い世界を願い全ての魔法を消し去った。その場所から自分の居るべき未来への転移すら行ってみせた。
魔力が無いから多用できないだけで、そこまで万能ではないとは決して言い切れない。
見知らぬ他人が望む見知らぬ場所へ送り届けるために、何を願うべきなのか。
そこに行きたいと強く願って帰って来れた前例から、それが大人達の言う座標であるというのは理解できました。
けれど、わたしの魔法は自分のイメージの具現化だから、知らないものは願っても歪な別物しか実現させられない。
彼の知るアサヒ・トゥロモニはどういう人物だ。わたしでは思い至ることができません。
家族と仲の良い自分など全く考えられない。ありとあらゆるものを駆使して否定したい。あの家族と良好な関係を築いてしまったらアサヒ・タダノは成立しない。どうにか歩み寄りを考えてみても、不快な思いをした記憶が邪魔をする。自分が悪いと思う時もあったけれど、全て自分のせいとは思えない。
想像力に自信はあるけれど、親に従う良い子のわたし自身を作り上げるのは到底無理だ。
難題を難題として塗り固めた犯人は見知らぬ魔法に目を輝かせている。先ほどまでの死んだ魚のような目はどこへ行ったのか。どれだけ期待されようとわたしでは応えられないのです。
試行錯誤のなか、数百年残る文化遺産や自然物ならばやりやすいと理事長は語ります。彼が簡単にやって見せた時間の転移はそれができたから。自称クロード君のように数秒もかからずコロコロと変わる不確定要素を移動の目印にした場合、失敗して戻って来れなくなる場合が殆どだと言います。
不確定要素の変遷を追尾し、逐次修正しつつ目的の座標に至るための柔軟さが出せるのは難易度が高く難しい。だが不可能ではない。たった一度の転移のための構成を最も短い時間で組み上げるためにわたしが居る。今このタイミングではわたしの願いを形にする魔法以外にありえないというのが理事長の考え方。
彼自身が目的の場に至るまでの研究を学園で行うのは許されない。ここに居ていいクロード君は、一人だけ。
その場で十二回のやり直し。
納得のできない頭ごなしの否定はわたしが許さない。何故ダメなのかを伝えなければならず、却下された案を出したわたしや先生も、それを却下する理事長も、皆疲れ果ててしまいました。
この場で疲れていないのは、身体を拘束されて身動き取れない自称クロード君ただひとり。
涼しい顔をしているけれど、そもそもコイツがわたしの前に現れなければこんなことにはならなかった。
ああ、そうだ。目的の人物を知る人間が目の前に居るじゃないか。
彼の記憶を覗き見て、彼と相思相愛になった人物を知ればいい。例え自分と同じ声と顔を持っていようと中身は別人だ。もし変なことを口走っていても理解しよう。元々この世界のどこにもいない存在なのだから、同じ時間を生きた人間から情報を引き出せばいい。なんだ、簡単な事だった。
そう決めた途端に考え方が浮かんできます。
彼のアサヒは自然に出来上がったものじゃない。彼の影響を受けて変質したアサヒちゃんだ。
入学以前から仲の良い家族である必要はなかったんだ。学園都市に部下を向かわせ消息を掴もうとしたお父様と和解した可能性も考慮すべきだった。自分がそうだったからと選択肢を狭めていた。魔法使いは柔軟な考え方が必要だといつも教わっているというのに、他人の事情を自分の都合で考えてしまっていた。
先生にお願いして、彼の記憶を覗き見ます。わたしと先生の会話を見た自称クロード君が非常に苦々しい表情をしていましたがどうでもいい。
予想はほとんど当たってしまいました。
アサヒ・トゥロモニは入学時点ではわたしと一緒。厄介者として家を追い出され、列車で魔法の無断使用と先生との出会いを経験したクロード君の同級生でした。
願いを形にする魔法は使えない。食堂爆発事件にも関与しない。二人それ以降の問題行動を収める中で互いに意識し合うようになった。
そんな波乱の学校生活でアサヒはやがて先生が年下の少女に関わるだけでどれだけの誹謗中傷を受けているか知る。先生を守るために恋人関係を解消し、家の問題を話し合いで円満な解決に導いた後、娘を頼むという父からの公認を受けたクロード君からの申し入れを受け入れた。
それが家との関係は良好なアサヒ・トゥロモニの正体。あの家で、あの環境で真っ当に親を尊敬して育つ娘などどこにもいなかったのだ。
道筋は見つけた。ならばさっさとこの場から出て行って欲しいけど、まだ問題が残っている。
彼はアサヒ・トゥロモニの別側面、わたしという可能性の一つを観測してしまった。
対象が持つイメージが上書きされたのは重大な問題だと理事長が言い始めました。
今の自称クロード君は自分の彼女がまだ生きている時間の座標だけでなく、アサヒ・タダノの過去か未来にも降り立ってしまう状態にあるという。
あちらのわたしが死んでから相当な年月が経っているせいで、記憶している彼女の姿が霞み始めている。こればかりは強い想いと気合いと根性で何とかできるものではないと、大きな腕で頭を抱えています。
その問題に対しての打開策を見いだせないのは理事長でしょう。何故わたし達が柔軟な思考を持っていないとお叱りを受けないといけないのかがわかりません。
どうやって送り届けるかを宿題として解散を宣言しようとした理事長に対し、明日の朝日など待っていられないと声を上げたのは自称クロード君です。
自分からすれば異常な世界への順応が進み対処できなくなるかもしれない。別の時間軸へ飛び移るのは、ふたつの軸の距離が近いほうがいい。今すぐに転移を行うべきで、事態は一刻を争うのではないかと理事長に問いかけていました。
ふと、食堂倉庫爆発事件の際、わたしの光を放つ魔法が宝箱に触れて大爆発したのを思い出しました。
磁石の同じ極のように反発する力はリニアカーのように強力な推進力となる。時間転移は物理的なものではないから同じ現象にはならないだろうけれど、そこはわたしの願いを形にする魔法があればいい。転移のイメージを物理法則に見立てれば同じような事になるのではないかとの考えが閃きました。
引き寄せられぬように意識を反発させる。転移の際、アサヒ・タダノは存在してならないと、自称クロード君が考える。
先生を好きであり続けるわたしの存在を否定する。絶対にあってはならないと拒絶する。可能性を示唆されても鼻で笑ってあり得ないと断言する。わたしを刺し殺してでも、わたし達の世界を滅ぼしてでもなかったことにしようと思ってもらう。
こちらを強く否定して、あちらを受け入れる。これならどちらに引き寄せられるかは明白だ。
あやふやな座標を同じあやふやなものを基準にした形で送り出すことで、引き合おうとする恋人同士を再び引き合わせられるならば、ドラマチックな演出を見せつつ道理を無茶で蹴っ飛ばせるのではないでしょうか。
「よし、それでいこう。」
長時間の検討に飽きてしまっていた理事長は、大きなあくびの後に提案を受け入れてくれました。
面倒臭いと呟いたのは聞き間違いではなかったようで、そこからの手際はとても早かったです。
理事長による魔法の上に転移座標を外部入力するための願いを形にする魔法が乗りかかり、対象者が望む時間と場所に転移できる魔法は完成です。
自分が会いたい相手を強く意識することと、それ以上に目の前にいる相手を否定することを簡潔に告げ、理事長は自称クロード君を書き上げたばかりの魔法陣に放り込みました。
先生が縄を解かずにいたのは彼の正体を疑っていたからだ。
何をどれだけ語ろうと、彼は未来から来たなど自称する不審者でしかない。二人だけの秘密を言い合わせたとしても、本物がその情報を漏らしてしまった可能性を否定することはできません。うっかりミスの多いクロード君ならば、弾みでいらぬことを口にしてしまうのは十分にありうる話です。
もし本人であったとしても、自分が過ごしてきた時間とは別の時間に影響を与えてしまうことを防ぐという言い訳ができる。本当によく考えていらっしゃいます。さすが先生だ。
理事長が使ったのは紛うことなき時間転移の魔法。それにわたしの願いを形にする魔法も間違いなく彼の意思通りに作用する。夜明けの魔女として、特別学級の優等生として自分の仕事は全うしたつもりでいる。
口にした言葉が事実ならば望み通りの場所に辿り着けるけれど、もし偽りであったならどこに行けるかはわからない。魔法による、二度と戻って来れない形の追放ということになる。
わたしから見えた彼はクロード君らしい旅立ち方だったで、おそらくは、本当に未来から全てを投げ捨てて過去を変えに来たのでしょう。
わたし達が彼の言葉を信じ、魔法を使ってくれた事への礼など言う暇もなく旅立ってしまった。感謝の意よりも先に出た縄を解いてほしいという懇願をしながら転移の魔法による歪みの渦に呑まれていきました。
それまで無かった記憶が突然鮮明にフラッシュバックしたりなどは起きませんでしたので、理事長とわたしの魔法は成功したんだと思います。