遠くから来た救世主
目の前に不幸な未来を変えるために時間を遡行したと宣う少年が現れました。
見知った顔と瓜二つ。人の顔と名前を確実に当てられる程の記憶力はありませんが、毎日のように顔を合わせているのだからその言い訳は通りません。顔の傷も、眼鏡の形もまるきり一緒。学園の制服と、黄色いネクタイで彼の所属は証明されてしまっている。
彼は、我らが特別学級が誇る現代の魔法使いの中でも飛びぬけた苦労人、クロード君によく似ていました。
少年よりは青年と呼ぶべきでしょうか。
背丈は高く、手足もわたしのよく知る彼よりも細長い。おかげで目測での距離を読み違え、接近を許してしまいました。
「ああ、アサヒ! アサヒ・トゥロモニ!」
彼は、もう二度とそう呼ばれる事はないだろうと記憶の彼方へと封じ込めていた名前を呼びました。
胃が強く握りしめられたように痛み、さきほど食べた少量の昼食が何倍にも膨れ上がって来た道を遡上して口から飛び出そうになります。先ほどまでおいしく頂いていたフレンチトーストが、腸まで下りて消化されきった朝食と共に逆流してくるかと思いました。
苦い虫入りの野菜の蒸し焼きを食べさせられた記憶が、ハラワタ入りの川魚を食べさせられた記憶が蘇る。白い糸のような何かが蠢く刺身を「虫が飛び出したから大丈夫」と喜んで食べていた大人達のおぞましい笑みが、今まさにわたしを抱きしめんと駆け寄って来る青年の涙交じりの歓喜の表情に重なります。
近寄るなと叫ぼうにも声が出ない。声を出したら必死に抑えている吐き気が爆発する。元凶である彼に向けて吐き出すのはいくらなんでも無作法だ。体格差と嘔吐の勢いから考えれば衣類を汚すのは無理だろう。魔法で吹き付けるとしても、吐瀉物の香りがその辺一帯に充満するという迷惑行為になる。
どこの誰か分からないけれど、わざとトラウマを想起させて動きを封じるという手段はお見事だ。
わたしが動けなくなる最も効果のある言葉を選択できた。魔法を使わず言葉だけで揺さぶりを掛けないといけない相手に対し、たった一言で一切の余裕を奪い去った。偶然すらも味方につける強運は賞賛するに値します。
だが、そこまでだ。もし目の前の青年がクロード君であったならば、先生から詰めが甘いと教わったはずだ。
ここが学園の校舎内であり、理事長をはじめとした大人達の監視の下にあるのを忘れてはいけません。廊下の繋ぎ変えを行う門の魔法、平時であれば教職は自由に操作ができるのです。
もしクロード君だったとして、先生の教えを長い月日を経て忘れてしまったとしても問題ない。 今ここで、また教わればいいのです。
事前に先生と決めていた救難信号は既に発信した。先生が壁の向こうまで来ている。理事長も聞いているだろうけれど、あの人は来ないだろう。
「よかった、間に合っ――」
『縛れ。』
命令のような魔法によって放たれた目に見えない縄が、今まさにわたしを抱きしめんと広げた彼の両腕を巻き取って、引き剥がすように後ろ手に縛りあげました。
学園からすればクロード君によく似た彼はあくまで部外者で侵入者だ。生徒としての認証をパスできたとしても、学生証が二つ存在するのは本来あり得ない。もし存在していたら、片方は偽造である。そして生徒の保護の観点から学園への無断侵入と学生証の偽造に対しての罰は決して軽くないのです。
「話を聞いてください先生! アサヒ!」
先生の本棚には縄で縛り上げて鞭打ちするような嗜虐的なプレイを掲載した内容の大人向けの本はありません。天井に吊し上げて身体の自由を奪ったのはただの偶然でしょう。
先生に背中をさすって貰えたおかげで吐き出しそうだった昼食は飲み込みましたが、どういった状況なのか理解できません。
彼はわたしの捨てた名を知っている。ならば娘を連れ戻さんとする両親が雇い入れた魔法使いか、それに類する輩だろう。だけど、父は実の娘がこの学園に居ないとしっかり認識したはずだ。初心に返り学園を再度捜索したりはしないだろうし、するにしても、学園都市の治安をかき乱した失敗も踏まえて事前の許可を確実に申請してくるだろう。
実家の手の者でないとしたら、次に考えられるのはサヴァン・ワガニンの配下。
こちらもあまり考えられない。彼らの主人は増やした自分自身同士の意識を同期させている。あの人物はわたしをアサヒ・タダノとして認識した。どれだけわたしを蔑もうと、熱心な信者が主の言葉を違えるなどありえない。彼らにそれを指摘すれば烈火の如く怒り出すかもしれない。
ならばなんだ。この男は何者だ。
アサヒ・タダノが捨てた名を知る人物などもう居ない。そして、その名を使ってやりたい放題思うがままを生きる女性もここにはいない。わたしが先生を好きにならず、何もかもが滅んでしまった世界で不老不死と孤独を手にした黎明の魔女は存在しないのだ。
もし、彼が黎明の魔女のように別の選択から枝分かれした未来から来た人物ならば、わたしの過去を知っている可能性は十分にあります。
わたしが先生に惚れなかった場合は二年目のはじめに学園都市が滅んでたくさんの人が死に、黎明の魔女が誕生する。そして先生を好きになったから今がある。選択一つで未来が変わるなら、分岐点はあの日の出会いだけじゃないはずだ。
絶対にありえないとは思いません。ここは魔法が存在する世界であり、わたし自身、未来の自分との邂逅すら果たしてしまったのです。
責任者である理事長の部屋へと場所を移し、縛られたままの未来の英雄は懇願と共に色々教えてくれました。
彼はわたし達がクロード君と呼ぶ人物の未来の姿である。
転移してきた目的は、自分が体験した破滅を事前から回避して、失ってしまった友や愛する人を取り戻すため。
近い未来にサヴァン・ワガニンによる学園を乗っ取るクーデターが起き、その戦いの中で学園都市は魔力炉の暴走からの大爆発で瓦礫の街と化す。理事長や先生、わたしを含め多くの人が死に、魔法使いに留まらず人類が滅亡の危機に瀕することになる。
そんな激しい戦いで、このクロード君はサワガニさんとの最終決戦に辛くも勝利。二度世界を救った英雄として担がれることに。
何もなくなった後の更地の平和を得るも、彼はその結果に納得がいかない。終焉の後の世界を巡るうちに時間を遡る魔法を理事長が持っていた事を知ると、研究をスタートさせた。
爆心地である学園の瓦礫の中から必死の思いで資料をかき集め、足りない分は生き残った皆の知恵を借り、遂に望み通りの時間転移を完成させた。
そしてついに、まだ何の兆候もない、平和な学園都市に降り立った。
彼から見た過去の自分はあまりに非力であり、事件を解決させるには至らない。不甲斐ない自分自身に肩を貸すためここに来た。
そうして皆に見送られながら過去にやって来たものの、国籍など正式なものを何一つ持たない未来のクロード君は学園都市に入れないし、上手く入れたとしても長期滞在は許されない。侵入するための制服と学生証は本物で、自分が自分である証拠として未来から持ってきた。自分がもう一人増えることに関しては、とりあえず直接本人に説明し、二人で一人を演じてやり過ごすつもりだったそうな。
わたしはこんな場所に居ていい人間ではありません。
理由もわからぬまま襲われた当事者ですし、強烈なストレスによって廊下で吐瀉物をまき散らす寸前でした。カーテンを固く閉めた真っ暗な部屋で布団に包まり言い知れぬ何かに怯えていてもいいはずです。
被害者であるわたしが同じ理事長室に居る理由。それは縛られたままの彼が知っている全ての情報を吐く条件として挙げたのがわたしの同席だったため。
「俺にとってのアサヒは、愛する人だ。」
一言で行動の自由を奪う程精神的に追い詰めた相手に対し、臆面もなく宣言したのには驚きました。
学園都市と共に失った時間転移の魔法を再度組み上げる程の根性は見上げたものだ。失ったものが多すぎる結末を覆すべく、自らの命すら顧みず過去に乗り込む度胸はたいしたもんだ。戦いの最中に亡くした愛する人を取り戻すために命を賭け身体を張る、まさに漢というやつだ。
ライバルから互いをよく知る恋人へ。
心情から関係が変化してくのはとても良いと思います。見ている側であれば、その良き関係が末永く続くことを祈りつつ生温かく見守りたいものだ。それがパラレルワールドのクロード君と自分でなかったなら、これほど見応えのある恋愛物語は無いでしょう。
彼と将来を誓い合ったのはアサヒ・トゥロモニであり、わたしではありません。
自称クロード君の知るわたしと、今この場にいるわたしとでは根底的な部分で選択を違えているのです。
だいたい理解したという宣言の後、理事長の答え合わせが始まりました。
「お前の転移の魔法は失敗だ。」
本来あるべき学園都市の魔力炉や願望器の補助が無い状態で使われて、人ひとりでは行使できない時間の遡行を成したのは評価できる。残っていた資料だけでここまで練り上げたのだからたいしたもんだ。
それでも、辿り着くべき座標は他にある。だから失敗だ。
彼の記憶とこちらの状況には大きな相違があると告げた理事長が、先生の傍から離れないわたしを指さしました。
「あれはアサヒ・タダノ。お前の知ってるアイツじゃない。」
それがどうした、同じじゃないか。先生と良好な関係を築いている。特別学級の委員長として皆をまとめ上げている。ならば名前が違っても状況に変わりは無いじゃないかと自称クロード君は反論します。
彼は気付いていない。気付いているかもしれないけれど、信じていない。
まるで人馴れしていない野生動物のように警戒し、愛する人を自称する相手に一切寄り付かない恋人がいる。名を呼ばれただけで体調に異常をきたしてしまった少女がいる。長い付き合いで見せた事のない側面を見せつけられている。その事実を見ようとしないのか、または見ていないのか。
理事長は自身の言葉を理解しようとしていない彼の前で大きなため息をつきました。
自分の恋人の特徴を述べるよう促して、自称クロード君はそれに従います。
彼が見てきたというアサヒという少女は別物でした。
実家の家族との仲は良く、週に一度は手紙でやり取りするような関係を保っている。書庫で本を読み漁るうちに魔法が使えるようになったのは一緒だけど、それは呪文を唱えて奇跡を起こす魔法であり、願いを形にする魔法とは別物だ。
厳格な家に育ち、学ぶ前から成功と挫折の両方を経験し、万能の魔法を求め、幼い身でありながら学園の戸を叩いた天才児。それが彼の想い人、アサヒ・トゥロモニだった。
わたしの知らないわたしがもう一人増えた瞬間です。
一人目は黎明の魔女。そしてもう一人、厄介者として追い出されたのではなく、家の誇りとして祝福される形で送り出されたアサヒ。あんな家族と良い関係を続けることのできる人間など考えられないけれど、それができるわたしが居た可能性があったんです。
どこか知らない場所からやってきた彼にとって正しいからといって、わたしがそれに従う道理もありません。今まで起きてきたもの全てが本物で、ここに居るわたしの意思も本物です。
実家とは絶縁状態であること、万能の魔法を既に有していること、わたしが好意を寄せるのは先生であること。
こちらでの事実が積み重ねられていく度に、自称クロード君の顔から血の気が引いていくのがよくわかりました。
「嘘だ、そんな、どうして?」
彼の時間転移は成功した。だが成功したのは時間の移動のみ。失われた技術の再現は目指していた場所を大きく外れ、辿り着くべき座標に漂着してしまった。
失敗した。たった一度の機会をしくじった。魔力炉の残骸に大勢の魔力をくべて、世界再生に使うべき魔力を全て使ってまで時間を越えてきた。去った後には絞りカスしか残っておらず、跳んできた場所はもはや人類の存亡すら危うい状況にある。生き残ったものを犠牲にしてまで行った奇跡は救いの手にはならなかったのだ。
組み上げた術式で起こせる奇跡は一度だけ。願いを叶える力を持つとされる悪魔とも契約し、寿命の半分との取引で一度限りを条件に行使を許された。そのおかげで同じ魔法は二度と使えない。
片道切符は既に切られ、帰って仕切り直すことなどできやしない。
自称クロード君に残されたのは、並行世界の同一人物が同じ時間に存在するという不都合な状況と、偽造と見なされた自身の身分。そして不法侵入や生徒への襲撃といった学園都市に対する攻撃をしてしまい、追われる身にあるという現実だ。
最終便で降りる駅を乗り過ごして終点で目が覚めた時の絶望感とは、こういうものを指すのでしょう。