それは尊厳を守るため
発案はナミさん。魔法の組み上げはクロード君。そして始動の為の魔力供給をポール、展開はマッシュという役割分担。学生の領分を越えた魔法の使用を承認したのは理事長で、監督として教師の誰かがどこからか監視の目を向けている。
特別学級の共同作業なのですが、これではわたしだけ除け者にされているようにも感じられました。
「この魔法、アサヒさんが居ないと完成しないの。」
この魔法の術式の構文には、特別学級はわたし達五人。誰一人抜けてはならないという定義が為されている。
わたしが入ると同時に入り口が閉じられることで、教室の中を砂浜に変える魔法は完成すると、マツリさんにも劣らぬ若くて白い肌を豪快に陽光の下に曝け出している水着姿のナミさんが言います。
見上げてみると、先生は苦笑い。海の上で男子三人も、わたしが砂浜に足を踏み入れるのを待ち構えている。さっき踏み入れた足は、思ってもいなかった熱さに驚いて引っ込めてしまったからノーカウント。
ここで入室を拒否しても、何かトラブルが発生した際には助けに入る事になるでしょう。
そんなのは二度手間ですし、最初から目の届く範囲に居れば事件は未然に防ぐこともできるはずだと思い直し、先生に続いて教室(砂浜)へと入りました。
砂浜で戯れるなど考えていませんので、何の準備もありません。
学園都市には海が無ければ川も無い。用水路はあるけど生活廃水垂れ流しのドブ川で、そこで泳ぐだなんてとんでもない。学園の施設にもプールは無い。水着なんて、買っても不特定多数との混浴程度にしか使えないでしょう。
カエデさんの服の中に脱げそうな布面積のわりにしっかり身体に張り付く服があったはず。水着でなくても、あれならば水遊びもできるだろう。
ここでの一時の休暇を楽しむ準備をするために一度戻ることを先生に提案しました。そして、許可を得た事で振り返り、その事実を再確認することとなりました。
背後にも波打ち際がある。ここは四方八方を砂浜に囲まれた海抜一メートル未満の小さな島。水平線ははるか彼方。出口なんて、どこにもありません。
心配は無用。常夏のビーチを元の教室に戻す為の施策はちゃんと準備してありました。
ハーフパンツ型の水着から小さな球体を取り出したのはクロード君。実行犯である彼曰く、紐を一つ引き抜けば解ける結び方のように、魔法の呪文を組んだそうな。その解除の鍵となるのが彼の手にある小さな黒い球体なんだそうだ。
何を思ったのか、彼は魔法を解くためのボールを砂浜のわたしに向けて投げようとしました。
ただでさえ左肩が悪いし運動神経も悪いわたしがボールをキャッチするなどできるはずもない。素手ではなく魔法で受け取れと言っているのでしょうか。
信じられない行動に出た彼が、野球漫画のピッチャーのように片方の足を大きく上げる投球の構えをとったまさにその瞬間、彼の背後から大きな波が押し寄せてきました。勢いの強さに足を取られ、盛大に転ぶクロード君。その手から、今投げようとしていた球体がするりと離れていく。
波の中に落ちた球体は、慌てて拾おうとするクロード君の手から逃げ回ると、そのまま引き潮に引きずられて海の底へ。
歯に衣を着せぬ形で言うのなら、彼自身も運動神経は悪い。
偽物であろうと海は初体験。海岸に打ち付けられる波の力がどれだけのものかを想像できなかったのは責められません。
砂浜の魔法を解いて、教室を元の姿に戻す。
鍵を失った今、目的の達成は絶望的になりました。
ですがご安心ください。幸いなことに、先生がこの場に居ます。
先生の頭脳と知識と能力ならば生徒が作った魔法の破壊など朝飯前でしょう。わたし達の期待の目はパラソルに変化した教卓の下にいらっしゃる先生に向けられます。
注目の的となった先生は、傘の下でぐったりとしていました。
先生は中間試験の前準備で疲労困憊。真夏の太陽に熱された砂浜の暑さに耐えれるはずがありませんでした。加えて、閉鎖空間を全く別の物に変換する魔法は試験の内容と全く一緒。先生は一人でずっと中間試験を受け続けているようなものなのです。
いちばん近い場所に居たわたしが介抱に入ります。先生が今まさに罹っている体調不良は熱中症と呼ばれています。そうなってしまった場合の対処方法は、目の前で動けなくなった人から色々聞いています。
これは話が脱線してしまいますが、「ねっ、チュウしよう」だなんて、ずいぶん積極的な名前の病名だと思います。
魔法を解くための鍵を失い、頼みの綱の先生もダウン。
帰れる保障は打ち砕かれ、今この時をもって、我々は脱出手段を完全に失いました。
真夏の砂浜を満喫しようとは思いませんでした。
わたしは今すぐ脱出しなくてはなりません。
熱中症に倒れる先生を涼しい場所に移動させたいと願うのもあります。これ以上状態を悪くはしたくない。もちろんそれもあるけれど、今に限っては先生は二番目です。ごめんなさい。
一番の理由。それは、トイレに行きたい。
授業前に済ませておくべきなのはその通りですが、教室がこんなことになってるなんてのは想定外です。そして尿意が無かった宿舎から出る前にしておくのは無理な話。
魔法で抑えようにも、自身のそれをコントロールする魔法は身体への負担が大きくて、無意識のうちに漏らしてしまう事故の危険がある教わったので、やりたくありません。
目の前に広がっている海ならば子供一人の小便の量なんて気にするほどでもない。そこで用を足せば気付かれることもないと考えられるでしょう。だが忘れてはならないことがある。ここは、教室なのだ。
魔法発動の瞬間を見ていないので何をどれに変化させたのかは分からない。だけど、目に見えるもの全てが元は教室にあった物達だ。
万が一ここで排尿など行えば、それは即ち教室に汚物をまき散らすのと同義。確かに問題児の揃った学級だけど、そんな行為が許されていいはずがない。
なんとしても、砂浜を教室に戻し、トイレへダッシュする必要がある。
わたしの尊厳のために。絶対に。
沖に流されていった球体を探す四人を目で追いながら考えます。
使用した魔力量に応じて空間も大きくなります。今回、彼らがどれほど広大な空間を作り出したのか分かりません。ですが、ポールとマッシュの膨大過ぎる魔力を贅沢に使用したのはだけは間違いないでしょう。
クロード君とナミさんの二人が低燃費な呪文を組み上げた成果も大きい。より消費の少ない魔法に大きな動力を加えたんだ。海はただただ広いものとして認識している彼らならば、際限なく大きく深い海を作ってしまったかもしれない。
永久機関とも言える太陽光を利用した自家発電もネックになる。魔法は魔力の供給が止まれば維持できません。太陽光パネルを壊してしまえばいいとはわたしも考えました。
何故それができないかというと、肝心の、魔力の供給を行う装置がある場所が分からない。どこに何があるのかを聞く前に、皆は海に入ってしまいました。
先生と二人だけになった砂浜で、皆が解除の鍵を見つけ出すまで待っていられる余裕がありません。
暑くて動きたくはないけれど、動いて気を紛らわさなければ我慢できない。急に催すだなんて本当に困ります。
わたしの魔法で自分だけ脱出することも考えましたが、先程のナミさんの言葉が頭をよぎり、思い留まります。
この砂浜の魔法はわたしがこの場にいる状態をもって成立しています。わたしが消えれば重要な部品が外れることになる。一度閉じられた砂浜に戻って来れないかもしれません。もし正規の手順を踏まずに空間が崩壊したら、教室が無事に元通りにならないかもしれない。先生や皆が戻って来れなかったりする危険性がある。
たった一度の尿意で全てを失いかねないのです。それならば、わたし自身にとっては大きな傷となってしまうけれど、教室でしてしまったほうがいいのではないかと考えてしまいます。粗相があった程度でわたし達の絆は崩れたりなどしないでしょう。
わたしは今、選択を迫られています。
打ち寄せる波に乗って皆が戻ってきたのは、いよいよ選択しなければ尊厳を投げ捨てねばならぬと覚悟を決めようとしていた頃合いでした。
彼らの手にボールはない。信じて待った長いようで短い時間では、何の成果も挙げられなかったのです。
脱出の手立てがない中で、わたしの膀胱はもう決壊寸前。時間がありません。
すぐに脱出しなければならない状況に際し、ここでやってしまえというポールはナミさんがドロップキックで蹴っ飛ばしてくれました。
わたしの魔法は本当にどうしようもなくなったときの最終手段だと、先生と約束していました。
無条件で何でも願いが叶ってしまい、万能ではない魔法に万能さを付け加えてしまっているのです。もし皆がそれに頼りきりになってしまったら、わたしの負担だけが増えてしまう。使えるわたしが思い上がったり、逆に良いように利用されてしまう可能性だってある。
魔法を解く鍵を紛失した。先生は熱中症でダウンしている。
もしこれで使ってダメならば、いったいどんな状況が非常事態なのでしょう。
元に戻らなかった時の後始末を皆にお願いし、先生の居る傘の傍に立ちます。
これから行うのは魔法の解体ではありません。
計算式を解体して読み解くよりも難しいそうで、魔力の流れを逆転させるだけでは魔法は解除できないのです。もしわたしが一流国家大学を飛び級で卒業できるような麒麟児であったとしても、決壊寸前の身体で四人がかりの魔法を解く時間は無いでしょう。
今にも漏れそうで、突き抜けるような青空と広い海、そして砂浜の景色を失うのをもったいないと思う余裕はありません。どれかひとつの構成要素を堰き止めて、段々と消滅するのを待つ時間すら惜しいのです。
願いを形にする。願うのは、魔法の無い世界。
学校生活の中で、わたしの魔法にはその願いが単純であればあるほど効力が強く、効きが早いという性質があることを学びました。
魔法という当たり前にあるモノを包括的に考えて、それを無いものと定義する。絵を描いていた紙を破り捨てるのをイメージして、魔法を消し飛ばすのです。
海辺の景色が薄暗さのある木造校舎の教室に戻ったところで、単調な拍手が耳に入ってきました。
「おめでとう。君たちは中間試験を合格した。」
教室の入口を塞ぐように試験官の腕章をはめた男性が立っていて、手を叩いています。
中間試験、何のことだろう。わたし達は自分達の欲求のためだけに、教室をプライベートビーチに変化させるという校則違反ギリギリの行為をしただけだ。それに、試験の開始も告知されていない。何がなんだかわかりません。
もし中間試験だったとして、わたしの魔法の使用は反則なのではないでしょうか。
わたしの疑問に対して試験官の教師は、万能の魔法に頼った点は本来減点の対象であるが、その魔法も実力のうちと認めてプラスと評価し減点を相殺すると言いました。
先生が巻き込まれていながらも、大人の助けを借りずに突破した事を評価してくれるそうです。
社会科見学同様に、恐れていた中間試験を知らず知らずのうちに攻略できたのは大変嬉しく思います。
でも、その場で総評を始めるのは本当に勘弁して欲しい。わたしは今すぐトイレに行きたい。もうだめだ、漏れそうだ。