自分がもう一人欲しい時
忙しい時、やりたくない宿題をしているとき、どうしても外せない用事で先生と会えない時……
事あるごとに、自分がもう一人居れば、と思う事があります。
自分が二人居れば効率は上がる。相手も自分なので作業の質に保障される。
嫌な作業は相手も嫌だけれど、一緒にやれば負担が半分になる。全て相互で分け合えば何の問題もありません。
実行したことはありませんが、わたしの魔法があれば自分自身を増やす事もできるでしょう。
何故やった事がないのかというと、思い当たった時にはいつも疲れているから。それに等身大の人間一人を作るのですから、そうそう簡単にできるものではありません。何かのルールに抵触し、手を増やそうとしたのに腕を持って行かれたのでは意味がない。
増やしたとして、もう一人の自分が体験した物事は誰のものになるのかという問題が残ります。
わたしが一日中部屋で怠惰を貪っている間に、増やしたコピーが先生と楽しい一日を過ごしたとします。なんなら子作りなどしてしまったと仮定しましょう。
ずっと部屋でダラダラしていたわたしは一日分の先生との交流ができていない。初夜を迎えていない。純愛作品のようにロマンティックなものだったのか、それともいつぞやの成人向け漫画雑誌の中にあったように無理矢理だったのかもわからない。
いくら先生が初物を二度も三度も楽しめるとしても、わたしがそうではない。本物にはできない酷い行為を行う可能性もあり、隠れた本性を暴いてしまうかもしれません。術者自身がそんな不利益を被っていいわけがない。
ならば、分身の記憶を引き継げばいいと。わたしも一度は思いました。
わたしがわたしを本物と認識するように、分身もまた自分がオリジナルと認識した状態で動いています。分裂していた際の行動はどちらも本物として記憶している。これは後で思い起こした時、本物の自分がどこに居たのか判断できなくなる。
かといって、しっかりと本体と分身を意識したのでは行う作業のクオリティに差が出てしまう。手抜きや手落ちや失敗を全て劣化コピーのせいにしてしまい、わたしが何の反省もしないやるだけの人間に育ってしまう。
それは全く別の人間を一人作る行為。
易々と行っていいものではないと考えて、いつも思い留まっていました。
さて、未だ理事長とクロード君の会談の場が解散になっていないわけですが、ここで驚愕の新事実です。
魔王は、サヴァン・ワガニンは一人じゃない。
先生を見捨てたり、先生が裏切ったりしない限り、わたしも学園とは敵対していない。そのことに胸を撫でおろし、和やかな空気に戻りつつあった理事長室が再び冷え込みました。
この情報を公開したのは理事長です。笑いながら言う話じゃありません。クロード君なんて、さっきよりもすごい顔になっています。顔からは生気が失われ、水分を抜き取られた干物のようだ。
一人だと思っていた親の仇、倒すべき宿命の相手が増えてしまったのです。そんな顔にもなります。
サワガニさんは学園に在籍していた当時から死を恐れ、ある一定量の魔力が確保できた時に自分自身を等分に切り分けて、万が一自分が死んだときのバックアップとして保存していたそうです。
記憶こそ共有しているものの、当時の魔法はあまり精度のいいものとは言えず、ただ保存していただけでは劣化してしまう。彼は分身の魔法の精錬のため、頻繁に作り上げた分身と入れ替わって授業を受けたりしていたそうです。
発覚の切っ掛けは、本物と分身の記憶のズレが発生してしまったこと。
魔法を使った時点での彼が作成されるので、会うたびに言葉遣いや態度が変わってしまっていた。当時は古い権威が跳梁跋扈していた時代。老人達に当然責め立てられたのもあるけれど、記憶の混乱は自我の崩壊にも繋がりかねないので、理事長はサワガニさんを猛烈に叱りつけたそうだ。
卒業後、悪の魔導師として名が知れ渡る頃に、非常に不安定な人物であるという話を理事長は聞いた。
王たる威厳を見せる偉大なる指導者かと思えば、子供のように癇癪を起す暴君であり、自身への脅威に怯えてあらゆる手を尽くして備える臆病者であり、新参の失敗を何度でも許す寛大さがあるかと思えばベテランを重用しなかったりと、とにかく安定しない。
在学時の行動と風に聞く彼の言動の一貫性の無さは、噂の一人歩きに非ず。
軟体生物の侵入事件の折、他所で捕捉されていたサヴァンらしき人物がずっと追跡されている中で、最終処分場からわたしがもう一人のサワガニさんを連れてきたのがより大きな議論になったそうです。
外見や声を作り替え、記憶を洗脳で書き換えた別の他人を彼として扱っている可能性も考えられた。だが、どちらも本人である証拠、全く同じ性質の魔力を持っていた。
それらを吟味したうえで、魔法使い達のお偉方の見解として、サワガニさんは分け身の魔法を使って自分を増やして活動を行っていると判断した。
尋ねる前に色々とご説明をして頂けるのは嬉しいのですが、そんなのは正直どうでもいいのです。
早く帰りたい。今日はわたしが料理の当番です。材料は既に先生の手で準備済み。わたしが行うのは順序を間違えないように注意しつつ煮たてた鍋にその材料を放り込む作業。その際に、先生のための愛情を込めなければなりません。こんな場所で疲れている場合ではないのです。
それぞれ別の意思を持って行動しているならば、それは同じ名を同じ目的の下動く組織の一員であり、別人です。
いま語られているのは、ありとあらゆるものを一人でこなしていた魔王の正体が同じ名を使って活動する集団だったという事実。それが強い忠誠心を持つ手下ではなく、魔法で自分を増殖させたサワガニさん自身だったという。ただそれだけのこと。
事実が判明したところで今の状況は良くも悪くもなっていない。強い忠誠心を持つエリートの育成が間に合っていないという人員不足が推測できるので、相手の組織再編は未だ完全に至ってはいないとも読み取れる。
考えているであろう反攻作戦もまだ白紙なのに、そんな情報だけ小出しにしていたのではこちらの主力にプレッシャーを与えるだけで何にもならないではありませんか。
慄くクロード君の隣で、いつまでわたしはこの場に拘束されていなければならないのだろうとぼんやりと考えていました。
今ほど自分が二人居たらいいと思った事はないでしょう。
分身にこの場を任せ、先生の下へと馳せ参じる。分身のわたしが先生との時間を取れなくて悲しむだろうけど、自身が分身だと理解した上で本体に従うように魔法を調整すれば、記憶のズレや意識のすれ違いが起こらないのではないでしょうか。
発想を変えるんだ。全く同じ人間を作り出す禁忌の呪法を試そうとしているのではない。あくまで影であり、わたし自身が遠隔操作するのだから自律制御は必要ない。仮想人格が無いのだから、この場に置いて行かれ先生に会う事もできずに消える自分の境遇を嘆き、オリジナルに対して復讐心を抱くことになるもうひとりのアサヒなんて存在しない。
考えてみれば、つい先ほどまでのわたしは一番面倒な事をやろうとしていたのです。そこまで高度な魔法を使用せずとも、ぬいぐるみをわたしの姿に化けさせて、この二人を誤認させるだけでよかったのです。
この場にいる男たちは話に夢中でわたしから気が逸れている。きっと服を脱ぎ捨て自分を解き放っても気づかないだろう。先生以外の男の前で脱ぐ露出性癖は持ち合わせていないので、やらないけれど。
身代わりを置いて逃走を図るのは無断で魔法を使った事になります。
いくら寛大なお方と言えど、まさか理事長の前で校則を破るなど許されてはいけません。しなくていい違反をしてしまう前に、帰りたいと素直に申し出ました。
「お前の魔法は知ってる事が多ければ多いほど有利だから、聞いておけ。」
情報を知っておいて損は無いと宥められ、この場に居るようにと言われます。
言われなくともその通り。知ることで仕組みが理解できるから、より的確に対処ができる。蛇口の水が止まらない時に、強く締めるのではなく中のゴムパッキンを交換するなど正しい対処をとることができる。
確かにその通りだけど、今この場で行われている会談に、わたしが知っておいて損はない情報があるのでしょうか。
半分以上聞き流していたけれど、表向きは最終処分場への社会科見学が学園行事として行われる。その実態は隠れ潜むサワガニさんへの奇襲または強襲。クロード君との接触はサワガニさんの死と直結しているので、会わせる事ができさえすればこちらの作戦は大成功。予言が外れ逃走されても、襲撃を受けた事で臆病な彼は魔法使いの社会からより遠ざかるはずだから問題ない。処分場ならばどれだけ環境破壊しようが問題はない。住人はそもそも居ないものとして扱われる。それらもついでに片付けられれば万々歳。
何も知らずに見学しに行った生徒を巻き込みかねない大胆な作戦だけど、サワガニさんが今も最終処分場に居るのでしょうか。こんな疑問と穴だらけの作戦を立案する程に、こちらも追い込まれてしまっているのでしょうか。
「わたしも行かないといけないんですか?」
あんな恐怖体験をした場所に行きたいなど思いません。暑いし暗いし臭いし怖い。サワガニさんの隠れ家に突入してしまったのは本当に偶然で、右も左も方角もわからない密林の道案内などできるはずもありません。
湖をひとつ吹き飛ばした。その跡地に残るサワガニさんの残り香を辿って見つける事ができるかもしれない。だが出会ってどうする。わたしは様々な状況に即時対応できるけれど、力が無い。本気の全力でも理事長には傷一つ付けられないし、こちらの守りも一撃で粉砕されてしまった。プロに対しては全くの無力の素人なのです。
それどころか、特殊な魔法の使い手としてわたしを奪われる可能性がある。厄介なものとして始末される可能性もある。目的達成の前に処分場の環境に耐えれず倒れる可能性だってある。行く事自体が危険なのではないのでしょうか。
思い付いたものを色々言い並べてはみましたが、本音はただ一つ。先生と一緒に居たいだけ。
行きたくないと直接言ってはいませんでしたが、そう聞き取れるわたしの発言の返事は、理事長による、床が揺れる程の強烈な土下座でした。
わたしの意思など関係なく、戦意高揚の意味も兼ね、主要メンバーの一人として頭数に入れてしまっていたそうだ。
本人の意向を無視して強要するところであったと謝罪を受けました。
クロード君の表情がさらに強張っていましたが、知りません。
君ならなんとでもできる。なにせ物語の主人公だ。君が死んでしまったら話は終わってしまうから、何があっても死ぬことはないでしょう。
まだ決定してもいない社会科見学と、失敗が目に見えている反攻作戦の両方への不参加を成し遂げました。
面倒に巻き込まれる前に対処ができて良かったと、心からそう思います。