新たな学園怪異がまたひとつ
学園都市には人間以外にも多くの生物が管理の目を潜り抜けて生活をしています。
彼らが生きる為の行動によってわたし達に大なり小なり害を被る事もありますが、そのほとんどは忌避の為の魔法や薬があれば対処可能。例え目の前にムカデが現れたとしても、居ること自体に気を留める必要はありません。
脚の多い節足動物を苦手とする人も居るでしょうけれど、そんなことでは魔法使いはやっていけぬのです。
わたしは今、女人禁制の男子宿舎に居ます。
内部構造は廊下や部屋の広さ、天井の高さ、消火設備に至るまで女子宿舎と全く一緒。シミや落書きなど汚れ具合に違いはありますが、女子側が常日頃から掃除の行き届いた清潔感溢れる宿舎とは到底言えない汚さなので、これも同じと言えるでしょう。
照明のカバーが経年劣化で汚れ、侵入した虫の死骸が入ったままなのが気になりますが、それは見方を変えればそれほど長い間壊すことなく使っているということ。物を大事にしていると評価できます。
貞操の危機を感じてしまう女子にとっての危険地帯、自分の意思で降り立ったわけではありません。
先程までの辛い戦いを終え、用意されていた決戦の空間からの出口の先がここだったのです。
案内役が道を間違えた。もしくは、意図的にこの男子宿舎へわたしを誘ったか、追いやった。
そういうことになるんでしょう。
部屋に不快害虫が現れたと教室で泣き崩れたのはポールでした。
背の高い男が虫一匹で大騒ぎするのはあまりにも情けないと思いましたが、口にはしませんでした。ナミさんと違ってわたしは大人なのです。
そもそも不快害虫とは何を指すのでしょう。脚の多い虫ならその辺に多くいる。今も天井を大きめのクモが一匹歩いている。裸眼では視認できぬほど小さくて、到底それがひとつの命だと思えない生物も大勢いる。体毛が薄いかほぼ無い人間だって見方を変えれば気持ち悪い生物だ。
話を聞くと、ポールはまず一番にクロード君に相談し、彼が理事長を真似て作り出した魔法の箱に追いやったそうです。
しかし虫は一匹だけではない。一つ見つけたのなら十は居る。現れる度に魔法の箱に放り込んだ。容量など全く気にすることなく、出たら出ただけ全部注ぎ込んだ。それはもう、給料が出たら全部ギャンブルに注ぎ込むダメな人のように。
中身がどんなことになっているのかわからない。最後に開けた際に一匹だけ脱走を許してしまった。箱の中から蓋をこじ開けて脱走してしまうかもしれない。どうしたらいいのかが、わからない。
空間の中に別の空間を作り出す魔法は転移の魔法と同等か、それ以上に厳重な使用の条件がある。許可なく使用するなどご法度だ。既に行ってしまっている為、先生に報告するのは後ろめたい。友人たちの間で解決したいと子供らしいワガママを語っています。
クロード君が使った魔法は、箱の中身を教室と同じ広さまで拡張する魔法。
新しい科目を学び始めてまだ日も浅いのに、短期間でそこまで出来るようになったのには驚きです。同じ教室で学ぶ者としてその成長の速さは良くも悪くも刺激になる。わたしなんて毎日本を読んでるだけで何の進捗もないというのに。
個人の部屋に湧いた虫程度の数ならば、教室の広さの場所に閉じ込めたとしても余裕があるはずです。
容量が一杯になってしまったのではなく、入口付近に集まっていただけかもしれない。
普通の人間世界の一年間のうち一番人間を殺している生物は虫。本人達の毒よりも感染症の媒介となる事から、特に世界中から子供が集まるこの学園都市では常日頃から虫刺されには用心しなくてはいけない。ポールはそんな虫が怖い。
危険なものを正しく恐れるのは大事です。情けないとは思いましたが、彼が恐怖するのには納得ができてしまいます。
勝手に作った魔法の空間に入り、大人の手を借りない形での虫退治。
不安定な空間は常に消滅の危険性が伴います。魔法が解けた場合が一番怖い。単にどこか別の場所に弾き出されるのならばまだいい。入った場所に戻されるのならば立派です。収縮する空間に閉じ込められ、叩かれたハエのようにプチっと潰されるのは最悪のパターン。
そんな場所への立ち入り自体が危険極まりないのだけど、四人の考えはその方向でまとまってしまいました。わたしは行くなどと一言も発言していませんが、討伐の切り札としてメンバーに加えられているようです。
その腹いせと言ってはなんですが、これらは全て先生には密告させて頂きました。後でみっちり怒られてください。
クロード君が作ったという自信作は、目的とする理事長のものに比べると不完全なものでした。箱の中の試験や迷宮を見てしまっていますので、比較してしまうのは許して頂きたく思います。
箱の中にあった空間は確かに広い。広いのだけど、高さが無い。具体的には部屋の天井が低い。そして真っ暗だ。
棚の下の収納スペースか、敷き詰めた机の下にいるかのようです。背の低いわたしですら天井に頭を付けない直立ができません。
その身動きしづらい空間の足元を、ポールの部屋に出たという虫が這いずり回っている。
この空間を魔法で作ったクロード君が明かりを灯し、足下に蠢く虫達が見えるようになった瞬間から戦いは始まりました。
ホラー映画の一番の見所、ヒロインの悲鳴のような大声をポールが発したのは言うまでもない。気をしっかり持つようにナミさんが檄を飛ばしますが、こちらも声が震えてる。足元の黒光りする冗談のような数の虫を見ても正気を保っていられる彼女は凄い。
クロード君は想定通りになっていなかった事がなぜなのかと頭を傾けている。声を発しないマッシュが何をしているかと思えば、無表情でひたすら虫を踏み潰し続けている。口の端がちょっと動いた。もしかして、笑っている――!?
わたしは、どういうわけかこのおぞましい状況をただそこにあるものとしてぼんやり眺めていられます。精神に干渉する魔法への防御に感情の安定化は含まれていないはず。冷静でいられたのは、先にパニックになった皆を見てしまったからなのかもしれません。
ともかく、五人がかりでの虫退治。わたしはただの見物のつもりでしたけど、作戦変更を余儀なくされました。
それぞれ別の形で恐慌状態の三人を正気に戻し、連携して駆除にあたるなど到底不可能。あらかじめ立てていた計画が台無しです。
天井は低いけど広さは教室と一緒で面積がある。マッシュのように一つずつ潰していたのでは時間が惜しい。潰すのは簡単だけど、重いものを敷き、一気に潰すのには広すぎる。魔法で絨毯を作って押し潰そうかと思ったけど面倒だ。
今目の前に広がっているクロード君の亜空間を、わたしが魔法で作った空間で上書きすればもっと楽になる。具体的に狭い場所での作業をしなくて済みます。ですがこれはやるべきではありません。苦労して会得した技術を見よう見まねで上回ってしまうのはクロード君メンツに泥を塗る行為であり、要らぬ感情を与えてしまうかもしれません。
広範囲を一気に殲滅するなら殺虫剤の散布が効果的だろうけど天井が低い。どんなに頑張っても自分達にも害が出てしまう。
色々と考えた末にわたしが実行のは、食べさせる事で機能する殺虫剤の散布でした。
大量の虫が瞬く間に寄っていく音にポールの悲鳴が重なります。申し訳ないけど許してほしい。これはそういうモノなんです。
こうして皆で危険な場所での仕事を終え、クロード君に誘われるがまま脱出した先が、男子の宿舎だった、というわけです。
箱の中を拡げる魔法を使ったのは初心者。しかも本来ならば二名以上の術者で行う大魔法。術式の短縮が無ければ三日三晩寝ずの番をしながら準備してようやく結果を得られる代物です。
思い通りではなかったとしても、初めての試みで、あれだけ多くの虫と、人が五人も入るだけの広さを確保できたのは凄いと思います。そんな場所を出る為の扉を用意したのもクロード君です。
何か意図があってわたしを男子宿舎に飛ばした可能性は少なからずあるかもしれません。でも、今日は違う。
不慣れな魔法を使い、天井の高さが無いという失敗をしてしまった。英雄と言えどまだ子供。気が動転したまま次の魔法を使えば精度も落ちる。それなりの形にはできたけれど、まだまだ発展途上で伸びしろがあるのが彼なのです。
いてはいけない場所に居る。この場から離れるか、先に作業の終了を先生に報告するかで悩みました。
移動する場合に備え、何も落としていない事と、大事な物をちゃんと携帯できているかを確認します。前回、最終処分場では学生証を落としていたのが誤解に繋がりました。笑ってしまうようなしくじりは二度と起こすまいと先生に誓っています。
散々悩んで、報告を先にしようと顔を上げたところで足音と喧騒が近付いてきたので、すぐに思い直して姿を消して逃げる事を選択しました。
廊下の端に寄って、誰ともぶつからぬように、物音を立てぬように歩きます。軋むのはしょうがないけれど、なるべく最小限に。
「魔法は使うなとあれほど言っただろう!」
「いやいや、僕ら何も使ってません! 信じてください!」
「ここで魔法の使用を感知した。お前達しか居なかった。つまりそういうことだ!」
背後では、校外での魔法の使用を禁止を厳格に守っている人達に無実の男子が捕まっていました。
校則違反を押し付ける形になって大変申し訳ないのだけど、こんな場所で捕まりたくはないので許してください。
数日後、誰も居ない場所で魔法が使われた痕跡が現れるという七不思議の八つ目が誕生したのですが、それはまた別の話。