魔王との契約
校門を出るわたしに声をかけようとしたら、何やら姿がブレたように見えて、まばたきした次の瞬間にはその軟体生物が居た。
クロード君が大人達に見たままを告げ、なんとかして欲しいと縋りついています。
わたし自身の願いを形にする魔法には代償があり、使い続ければやがてヒトの形を失ってしまう。
そんな噂がまことしやかにささやかれていたのを覚えています。
彼からすれば、それが本当で、本人が知らぬ間に前触れもなく起きてしまったと見えるのでしょう。
学園都市は、軟体生物が何なのかを知らなければならない。
無差別に人を襲う化け物だから、本来ならば駆除対象。だが、大事な友人がそれに変化する瞬間を見たという生徒が居る。
その証言を無視することができない。元に戻せぬのならやむなく処分もあるだろう。だが、可能性があるのなら賭けるべきだ。そのためにもまず大人しくする必要がある。もしその軟体生物が彼女であり、なおかつ彼女の意識がまだ残っているのなら、傷つけるべきではない。
警備隊の負傷者数がどんどん増えている。幸い死人はいないようだけど、倒れて動かない人が水面に映る度に息が詰まり、鳥肌が立ちます。
逃げる以外考えられなかったあの軟体生物をわたしが退治するなど考えられないし、考えたくありません。
何かしようにも、つい先ほど水中で太陽の魔法を使ったので、今日はこれ以上魔法が使えません。
それでも何かできないか考えてしまう。せめてその軟体生物がわたしと無関係だと教える事ができれば、アレに理事長の力任せな拳をお見舞いする事ができる。
ここがどこなのかは理解した。だがどうやって学園都市と繋がっているのかがわからない。帰るどころか探査の魔法の網を手繰り寄せて先生と連絡を取る事すら叶わない。
それでも何とかしたい。いや、何とかしなくてはならない。このままでは誰かが死んでしまう。具体的に誰かと言えば、先生だ。
中継映像の中に先生は見えないけれど、事態の解決のためにどんな手を考えているのだろう。もしアレをわたしと信じ切り、声を聞けば正気や身体の制御を取り戻せるのではと考えて、無理に至近距離に近寄って語りかけなどしてしまったら。アレに意識があるかどうかは定かじゃないけれど、とりあえず軟体生物の腕に弾き飛ばされるのは間違いない。当たり所が悪ければ死んでしまう。先生が死ぬのだけは、何が起きてもダメだ。絶対にダメだ。
今のわたしは何もできない傍観者。解決するのには他人の手が必要。そして、この場に居るわたしではない他人は、たった一人。
彼の悪名は千里を走り、別の時間軸にさえも轟き渡っている。世間からの彼への信頼はほぼゼロだ。そんな相手に協力を願うなど、絶対にあってはならない。解決に至っても、今度はその選択を取ったわたしが変な相手に協力を願った事をバッシングされる。例えサワガニさんが依頼を快く受け入れてくれたとしても、だ。
そうなればわたしはやがては学園を追放され、魔法使い達からも後ろ指を指されるだろう。受け入れ先は、この人だ。夜明けの魔女にして悪の大幹部、アサヒ・タダノの誕生である。
その誹りを受けるか、このまま先生が死ぬ可能性のある事件を傍観者として見届けるか。
悪人に手を借りたということはわたしだけでなく、先生にも迷惑がかかる。夜明けの魔女の名にも傷がつく。
さあどうする、どうしたらいい。魔力切れで回らない頭で考えすぎて頭が痛いなど言ってる場合じゃない。
そうだ、魔女だ。あれがある。
忘れていたわけじゃないけれど、今思い出しました。
学園都市のみならず、魔法使いの社会では、夜明けの魔女とアサヒ・タダノは関連付けられていない。
その正体は今だ謎に包まれている。敢えて多くを語らず謎多き存在であることをヨシとする、とんでもない発想と、とんでもない魔法を平気で行使する女性。
サワガニさんへのお願いが、わたしの願いではなく、夜明けの魔女の願い出ならばどうだ。
夜明けの魔女の気まぐれには最悪の魔法使いすら動かざるを得ない。それが上手くいけば、夜明けの魔女はよりとんでもない存在になってしまうけれど、それは構わない。元々あってないようなものだ。
彼に頼む事は決めました。だがどうやって彼を動かすか。
緊張感も無く隣に居るのだけど、女子供だろうが簡単に手を掛ける凶悪犯罪者。どれだけ人の心が残っていようと幼女の涙など何の味付けにもならない。そんなのが通用するのはアニメか漫画か小説だ。
相手の心を突き動かせるものが何かないかを考えます。
卒業後は彼の下へ馳せ参じる。これはダメ。
この場所にいる事を隠匿する。たぶんダメ。先生と学園都市に嘘は付けない。つきたくない。
ああもう、考えている時間が惜しい。もういいや。やけくそだ。話しながら考えよう。時間が無い。
「サワガニさん、お願いがあります。」
そもそも、今回の交換転移事件にサワガニさんは関わっていない。それだ。今回サワガニさんは無実だと証言しよう。その潔白を証明すべく夜明けの魔女に手を貸した。そういう事にすれば丸く収まるのではないでしょうか。
ちゃんと伝わったかどうかは分かりませんが、わたしがやりたいことと、考えた計画を全てお話しました。
承諾するかどうかは賭けです。彼の、聞いてから考えるという言葉を信じました。
「その目的は何だ、アサヒ・タダノ。」
「先生を死なせたくないだけです。」
最終的な目的はそれだ。わたしがわたしのまま学園都市に帰ることは二の次でいい。
帰るとしても、今のわたしは魔力を使い切ってしまったので魔法が使えませんので、足手まといです。
それに加え、学生証があの軟体生物の体内にある。ただ転移しただけでは不法侵入者として扱われてしまう。
校門前で大暴れする軟体生物がわたしであるという皆の認識を切り替えて、学生証をあの軟体生物から取り返す必要があります。
先生を死なせない。どんな形でもいいからアイツから学生証を取り返す。わたしを学園都市に帰して貰う。
アポも無しに話をしている今の状況を許されている上にこれだ。図々しいにも程がある。無礼どころの話ではありませんが、いま、わたしの目的を果たすにはこれしかないのです。
目の前に居るのが誰でも構わない。使える可能性があるなら敵だろうが何だろうが使う。
ダメだったときは、今から返事が来るので、それから考える。先生のように計画を練り上げ確実に実行しようとしたいのだけど上手くいきません。いつもこうだ、最終的には全部崩れて行き当たりばったりだ。
日没が過ぎ、暗くなり始めた空を仰いだサワガニさんの判断を待ちます。
そのままゆっくりと目を閉じたかと思ったら、次の瞬間にはまるで目から光線を出すのではないかと思う程大きく見開きました。
何をしているのかわからない。聞きたいけれど、熟考の邪魔をしてはならない。わたしの行動全てが判断材料なのだ。心配りが蛇足になる可能性もある。
大きくため息をついた後、魔王はその言葉を口にしました。
「理事長とアイツ、お前達が言う、クロードに用が出来た。そのついでだ、引き受けよう。」
なんということでしょう。わたしは今、魔法使い史上初の偉業を成し遂げました。
こちらから何も供することなく、全世界の敵、冷血非道の魔王、サヴァン・ワガニンとの交渉に成功しました。
飛び上がりたい。喜びを表現したい。でもわからない事があるので我慢します。
何故、子供の考えためちゃくちゃな提案に乗る気になったのか。
その問いには、転移の為の魔法を組み上げるほんのわずかな準備の合間に応えてくれました。
目を開けたり閉じたりしていたのは、未来を視ていたからだそうだ。
自身が最も恐れている自分の死は、クロード君との接触にある。前回のわたしとの問答で未来が変わる前は、今日がその日だった。焦った自分が学園都市に攻勢をかけたが失敗。彼との決着の最中に、彼と共に命を落とす。そういうシナリオが用意されていた。
それが書き換えられた先、次に訪れる死のタイミングは今ではない。元あった筋書き通りに学園に行っても問題が無い。むしろ、さらに長生きができる可能性を示されたとか。
間近で見ることなど二度とないでしょうけれど、見れば見る程、サヴァン・ワガニンの魔法は先生の魔法によく似ていました。
元ある魔法の改良、主に短縮と効率化。
年季の差もあるのでしょう。元の魔法の形を踏襲しながらも、どこを切り詰めているのかがわかりやすい。学園では暴発の危険性を孕むとされ、使用を禁止されている描き方を大胆に利用しながらも安定性を産み出している。敵ながらも見事な魔法です。
そんなサワガニさんの魔法によって、人工物の無い場所に扉が作られました。
「行き先は取手に触れた者によって決まる。先に行け。」
その扉は最初に触れた人が望む場所へ送り届ける事ができる。学園都市に、先生のもとへ帰りたいわたしが触れなくてはならないと、魔王は言います。
人間不信をこじらせて、こんな処分場に引きこもる男がすんなりと了承したのがおかしい。
実は全てが嘘であり、学園都市の混乱もまやかしで、扉の向こうは魔王の居城だったりしないかと考えました。
いいや、信じろ。信じるんだ。
優先順位を間違えてはいけません。わたしが怖いのは帰れない事じゃない。先生を失う事だ。もし全てが嘘偽りで、わたしがこのまま連れ去られたとしても、今この場で先生の死を回避できたのなら結果オーライなんだ。
覚悟を決め、ドアノブに手を掛けた瞬間に、サワガニさんに呼び止められました。
このまま学園都市に向かえば、敵意の矛先は問答無用で全てサワガニさんに向かう事になる。頭の固い学園都市の中枢や魔法使いの社会は彼が手を貸すなどと思いもしない。わたしがいくら説得しようと聞き入れないし、納得しないだろう。その対策が必要だと言われてしまいました。
言われてみれば確かにその通り。彼らが納得する手段で批判や罵倒を叩き伏せなくてはいけない。わたしには思いつきませんでしたが、分かりやすい形で無理やり納得させるあるそうです。
その手段とは、どんな存在も逃れる事のできない契約の魔法。
それを宣言するにあたって、相手の名前が必要だと言われました。
わたしがその魔女本人であるかどうか、言っていいものか躊躇います。わたしの魔法の事は知っていても、そんな称号を手にしてしまった事までは知られていません。学園都市にいまだ潜む彼の手先の報告は上がっていない。
確かに魔女だけど、特権は何一つない。それでも名乗りを上げていいものか。
「いや、いい。言わぬようにと釘を刺されたか。」
ドアノブを手に硬直してしまったわたしを見て、サワガニさんは首を振ります。そして組んでいた腕を解き、手を掲げ、契約の魔法を宣誓しました。
『これよりサヴァン・ワガニンは、夜明けの魔女、アサヒ・タダノと一時の共闘関係にある』
契約書はわたしとサワガニさん、そして夜明けの魔女の三人によるものとして書かれました。
書面は名前とその人物が一致していればいいようです。そして、この書き方ならば、夜明けの魔女という名がわたしの称号なのか別人なのか判別する事も出来ない。敵ながら、実に頭のいい表現方法です。
「契約は示されました。では、参りましょうか。」
宣誓した瞬間から、わたしに対して口調を変えてきたのには驚きました。
単語をただぽつぽつと並べたような言い回しが一転、丁寧なものになっています。悪い魔法に精神を侵されて言葉を発するのも難しくなっていたのではないのですか。
「今この時より僕とあなたは同じ立場となりました。これは対等なればこその礼儀です。」
目下の相手には権威を示す為に横柄に振る舞うけれど、対等ならば礼儀正しく接するのが彼なりのポリシーなんだとか。
自分より上が居ない者だからこそできるやり方です。もし、わたしが同じことをしたのなら、ただの媚び諂いだと蔑まれることでしょう。偉い人は羨ましい。いやほんと。
「全ては夜明けの魔女、あなたの意のままに。」
いまここに、恐らく今晩限りの、史上最悪のタッグが誕生しました。